2008年10月14日

キューバのこと

「モーターサイクルダイアリーズ」という映画があるのだが、もう何回見ただろうか。

キューバ革命のカリスマといわれるチェ・ゲバラ。彼は医学生だった時代に南米をバイクで縦断する。そして、権力による収奪と貧困、病人を見ながら、彼が精神的に成長していく過程を描いた作品である。

この映画は、大して派手なアクションもなければ銃撃戦もない。はらはらうきうきする恋愛ものでもない。
淡々としたロードムービーである。しかし、映像の底辺に流れる若者の純粋な熱い思いを感じることができる。それがあるから、最後まで見続けることができるのだろう。描き方もドキュメンタリータッチだ。

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「チェ・ゲバラは、なぜ革命家になったのか」、という問いの答えが、この映画の中にある。キューバ革命の後に、彼は再び革命家として南米のゲリラとなるが、最後はCIAに射殺される。

このチェ・ゲバラには、社会主義者や共産主義者じゃなくても、ファンが多い。それは彼が、弱い者、少数者、病人などの味方であり、貧困を作り出す収奪システムを改革しようとした純粋な思いをもっていたからであろう。それと、あのかっこよい風貌にもカリスマ性があるのだろう。

もう1つ、この映画から見えてくるのは、「帝国主義」とは何かということである。武器や火薬を発明し大量生産した強い国、産業革命をいち早く成し遂げ経済発展した国、はおのずから“未開の地”へ進出していく。そして、原住民を追い出したり、土地を奪ったり、町を征服したりする。元々あった文化は根こそぎ破壊しつくす。

そして、植民地化されて、大規模なモノカルチャー的収奪が行われる。原住民は、みな政治的、軍事的、経済的に従属させられていく。やはり、強い者は弱い者を支配するのである。中南米においては、昔はスペイン、今は米国だと考える人もいるだろう。日本も明治維新以降、富国強兵政策で発展したものの、中国を植民地化しようとして逆に欧米の反感を買い経済封鎖されて悲惨な戦争に突入していった歴史がある。

では、帝国主義ではない方法とは何だろうか。そこが大事なところだ。そして、弱い者、少数者、貧困者に温かい社会、文化を大事にする政策とは何だろうか。平和で貧困のない民主的な世界を作るにはどうしたらよいのだろうか。

貧困が蔓延し、貧富の差が拡大すれば、必ず社会主義や共産主義的な要素を求める声が大きくなる。
昨今、中南米で反米政権や社会主義政権が次々と誕生している現実を見ると、グローバル化というのは新しい形の米国帝国主義だと人々が感じているのではないかと思ったりもする。

ソ連が崩壊した時、私もキューバに取材に行った。ガソリンが入ってこなくなり、町には中国から輸入された自転車があふれていた。通訳をしてくれた若者にチップを渡すと、彼はその金を、老人に渡していた。
それを見て、この国は米国から経済封鎖されて貧しいが、温かさがあるとを感じた。

サトウキビ畑に夕日が沈むころ、皆といっしょにトラックに乗って、首都ハバナまで帰った。
そのときに、彼らが歌っていた歌のメロディが、今でも心に残っている。

投稿者 matsuno : 12:41

2008年10月12日

基礎知識①

カメリハ: カメラリハーサルの略で、収録前にダミーの演者さんを使っての動きと一連の流れをチェックすること。

ドライ: 演技のリハーサルでカメラを通さないで直接現場で各セクションのスタッフも含めて演技を見て照明の微調整や音声のマイクの位置カメラの動きの最終確認をすること。

ランスルー: カメラを使って本番同様のリハーサルをしてモニターを通して確認をすること。

アナログ地上波の画面サイズはSDサイズ。640×480ピクセルの縦横比4:3。
地上デジタル放送はHDサイズ。1280×720 1920×1080ピクセルの縦横比率16:9。

投稿者 matsuno : 14:16

2008年10月04日

だんだん

NHKの朝ドラ「だんだん」は、物語の展開に期待できるような気がする。まだ、気がするだけである。
やはり、東京局よりも大阪局のほうが、作る内容に味があるのかもしれない。

「瞳」は、主人公の周囲に、豪華な脇役を並べたが、肝心の主人公がぱっとしなかった。
物語展開も、子どもを出せばいいというものではないですね。

最後の父親が出てきたあたりから、すこしは見られるようになったものの、やはり、最後までもりあがらなかった。ここのところ、最低の視聴率だったというのも、うなづける。
最後まで我慢して見ていたが、結局、見なくても良かった感あり。

主人公は、演技が下手でも、それでも何か視聴者をひきつける魅力が必要ですな。
あの表情のなさ、演技のど下手度、さらに子ども出せばいいという安易な脚本はいただけません。
最低だったのは、主人公が時々カメラ目線になること。これは、撮り直してほしいぐらいでした。

まあ、「ちりとてちん」の時も、三脚が写っていたことがありましたが、主人公のカメラ目線はやはりいけませんね。

救いだったのは、安田ケンとトリプルAの宇野みさこ展開ぐらいだった。

「どんど晴れ」も「ちりとてちん」も、物語展開が早いし、どんでん返しがあり、ハラハラもあり、笑いと涙があった。しかし、「瞳」は、最近、まれに見る駄作だった。

ところで、「だんだん」は、脚本の立体構成がうまい。
今後に期待しながら、見ることにしよう。

投稿者 matsuno : 21:26

2008年09月23日

ドキュメンタリーの時代復活か?!


9月23日付けの産経新聞に、こんな見出しがあった。
「各民放10月の番組改編 『ドキュメンタリー』回帰 世の中の風、変わる」

民放キー局10月改編で、TBSとテレビ朝日がゴールデンタイムに、ドキュメンタリー枠を設けたのだ。
ドキュメンタリーは、昔から視聴率全部集めても25%しかならない、とよく言われてきた。
私は、そんなことないだろうと思っていたのだが、硬派になればなるほど、視聴率は取れなかった。
面白さや物語、事件性があると視聴率は取れるとは思っていたが、テレビメディアそのものが刹那的で、刺激的で、浅薄なのかと思ったこともあった。
しかし、本当に人間の本質や生き方に迫るものは、20%超えるものもあった。
津田投手を追ったNスペ「もう一度、投げたかった」などである。

しかし、時代は変わってきた。作りものにうつつを抜かすよりも、現実の前の問題に向き合わなければならなくなったからだろうか。
記事にはこうある。

「クローズアップ現代など硬派な番組が2ケタ視聴率を取り、世の中の風が変わってきた」(TBS)との読みがあり、ライバルはずばりNHK。娯楽重視だった民放の編成姿勢へ、変化が生まれてきた。 TBSは水曜夜、3本の報道・ドキュメンタリー系新番組を連ねた。なかでも「水曜ノンフィクション」は「高品質のドキュメンタリー」が軸という。吉崎隆編成局長は「人生や老後について『こんなはずじゃなかった』と思っている人が、フィクションや笑いだけを求めているのだろうか。冒険だが、一度真面目に世の中に向き合いたい」と、視聴者ニーズを見詰め直すことを強調した。
テレビ朝日は報道局内にドキュメンタリー制作班を新設。月曜の「報道発 ドキュメンタリ宣言」では、「『現象』ではなく『人間』にこだわり、ニュースの真相に迫る」。
(一部抜粋)

ならば、大変良いことだろう。
吉崎氏も、多々問題はあったが、ついに編成局長まで上り詰めたのか。
彼は、例の「日米兵士の昼食会」のD。番組「報道特集」時代には、数々の名作を世に出した。ドキュメンタリーへの思いが、心のどこかにあったのだろう。

多摩探検隊も、良いものを作るという本来の目的に立ち返るべきだろう。

投稿者 matsuno : 14:57

2008年09月21日

穴沢利夫さんとの再会

中央評論で特集した「戦争を生きた先輩たち」でも描かれた穴沢利夫さんについてのドキュメントドラマがあった。

「なでしこ隊~少女達だけが見た“特攻隊”封印された23日間~」

は、ドラマとドキュメンタリーが混合されたドキュメンタリードラマ。2時間という大作。
よくできているところと、いまひとつのところが混在。

穴沢利夫少尉の物語は、ドラマとドキュメントを組み合わせて、わかりやすかった。
穴沢利夫少尉が、特攻出撃しては機体の故障や天候不良で、幾度となく帰還していたという事実も、初めて知った。
そして、その帰還の背景には、婚約者への断ち切れぬ思いがあったのではないかという視点で描かれていた。
しかし、その穴沢少尉も、第2次総攻撃の時には、ついに帰らぬ人となった。

最後に、婚約者の伊達智恵子さんが、穴沢利夫さんの実家を訪ねて、残された軍服と対面するシーンがある。
行李を空けると穴沢さんが着ていた軍服が出てくる。
そのとき、智恵子さんが「あらー」と驚いた声をだし、軍服を手にとる。
そして、折りたたんで、しっかりと抱きしめる。軍服の中に顔をうずめて号泣される。
まるで、穴沢さんと再会して、婚約者の胸に顔を埋めてないておられるようだった。

この部分には、さすがに泣けた。
と同時に、戦争というものが引き起こす悲劇の現実に、なんともやるせない気持ちになった。

戦争、特攻隊という歴史的現実が、婚約していた2人を引き裂いた。
智恵子さんの思いは、63年前とまったく変わっていない。
表面的には人は老いていく。しかし、気持ちだけはまったくかわらないでいるのだということを、あらためて思い知った場面だった。

投稿者 matsuno : 21:56

2008年07月20日

「ヒロシマ独立論」

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広島には、学生時代から、5,6回は行っただろうか。

しかし、この本を読んで、戦前の軍都だった「廣島」と、被爆した「ヒロシマ」と、そして戦後に発展してきた「広島」の3つがあることを初めて知った。

この「ヒロシマ独立論」というのは、物理的な独立ではなくて、心の中に本当の平和な空間を構築するという意味で、「独立」という言葉を使っている。最後まで読むとわかる。

では、なぜそういう「ヒロシマ独立論」を唱えるのか。

著者の発想は、こうだ。
「唯一の被爆国」という発想はおかしい。
実際は、在日の人々、アジア諸国の留学生、アメリカ兵捕虜、などが被爆している。「唯一の被爆国」とすると、ナショナリズム的な反核に転化してしまう危険性がある。

原爆を投下したのは米国という「国家」であった。それは、戦争勝利、国益のためには、手段や方法を選ばないという「国家」という装置がなしたことであった。
被爆国を強調しながら、被爆国をアリバイに、憲法9条を変えて軍隊を保持する普通の「国家」になろうという動きを注視しなければいけない。

原爆で一瞬にして10万人が消滅したという事実は、国家とか国民という視点ではなく、それを超越した世界的、人類的な視点で捕らえられるべき。ならば、「ヒロシマ」を、超国家、超宗教の、世界に開かれた「独立空間」にしてしまえばどうか、と主張する。

廣島→ヒロシマ→広島と変化してきた広島、移民が多い広島、ヒロシマをアリバイに徹底的に管理される平和国際文化都市である広島、など、著者の視点は鋭い。

しかし、沖縄との連動を語る付近から、勉強不足であるがゆえに難しいと感じた。「音楽」の章に至っては、著者のもっとも得意とする分野のためか、知らないことが多すぎて、私には難しすぎた。

この本を読んで、もう一度、広島の町を訪れて、ヒロシマという独立空間を考えてみたいと思った。

投稿者 matsuno : 21:26

2008年06月24日

知性だけでなく、身体と生命も・・・。

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「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」内山節 講談社現代新書 720円

昔と言っても、1950年代から60年代初めのころの話だ。私はまだ小学校に通う前だったが、いろんな大人から、キツネやタヌキにだまされた話を聞いた。幼稚園に通う身であった私は、その話を信じて、夜道は怖いというイメージを持ってしまった。

自宅から幼稚園に通う道は、一直線に伸び、小川が傍を流れ、草木は青々としていた。
道はまだ舗装されておらず、土のままだった。荷物を運搬する牛や馬が引く車も頻繁に往来していた。

フナは、手でつかみ取れるぐらいたくさんいたし、ヘビが川を泳ぐ姿は何度も目撃した。雨の日は、道をヘビが覆っていたこともあった。でも、そんな自然にあふれていた故郷が、大好きだった。草むらや森を走りまくり、いろんな遊びをした記憶がある。

祖父の家は、母屋と厠(トイレ)が離れていた。夜中に厠に行くときは、庭を通り越していかなければならなかった。まだ小学校に入る前だったから、夜中に1人で庭を歩いて厠に行くのは怖かった。でも、星の明かりは、とても明るいことに気づいた。星明りで、庭の土が輝いていたことを覚えている。

祖父が死んだときは、土葬だった。木の桶に入れられた祖父を、村人が穴の中におろし、みんなで最後の別れをした。そして、一気に土を落としたことを、つい昨日のことのように覚えている。

そういう環境の中で、キツネやタヌキにだまされることがあるという話は、真実味のある話だった。

しかし、1965年を境に、キツネやタヌキにだまされるという話が、消失していった。その原因について、この本は、ある説を展開している。

この本は、生物学、動物学の本ではない。民俗学や宗教学の本でもない。
この本は、歴史哲学、厳密に言えば、哲学の本だと言った方が良いだろう。

「1965年頃を境にして、身体性や生命性と結びついてとらえられてきた歴史が衰弱した。その結果、知性によってとらえられた歴史だけが肥大化した。広大な歴史がみえない歴史になっていった」というのが、筆者の考察である。

知性だけではとらえられないものがある。身体性や生命性を大事にして、自然の中にある自分の存在を見つめなおすことを改めて決意させる良書である。

投稿者 matsuno : 23:42

2008年06月06日

明治時代の書き込み

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基礎ゼミで、図書館ツアー。
学生に「古い本を探そう」と言ったところ、明治時代の本を見つけて来た。
125周年の中央大学だから、あるはずだと思っていたが、やっぱりあった。

そして、中身を開いた学生が、「あっ、書き込みがある!」と驚いた。
確かに、赤で書き込みがあった。別の部分には鉛筆で傍線が引いてあった。

今から100年ほど前の学生が、この本を使って勉強していたのだろうか。
薄暗い書庫で、しばし、時空を超えた気分にひたるのであった。

ちなみに、中央大学の蔵書は200万冊。国内でも有数の大学図書館。

投稿者 matsuno : 22:57

2008年06月02日

「ハンティング・パーティ」というA級でB級な映画

封切りと同時に見たが、感想を書いていなかったので、書いておく。

「ハンティング・パーティ」

題材はボスニア・ヘルツエゴビナ紛争の民族浄化問題と指導者の生け捕り作戦をするジャーナリストの物語。
題材はA級なのだが、作りが残念ながらB級。
ハンバーガーのメガサイズを問題にした「スーパーサイズミー」のような雰囲気が、映画全編に流れているように感じるのは私だけだろうか。

どこまで実話で、どこからがフィクションなのかはわからない。ただ、民族浄化を扇動したセルビア人指導者・カラジッチ氏が、未だに逃亡中であること、そして、CIA、NATO、国連などが逮捕にやる気がないという現実について、この映画は鋭く突いている。

映画では、ジャーナリスト3人が、CIAなどよりも早く、短期間の努力で、生け捕り寸前にまで追い詰める物語が展開され、公的な機関の怠慢ぶりを暴露した形になっている。

映画全体がジャーナリズム的といえば、そうなんだが、作りがなにしろ安っぽいのが残念。

ただ、特種を狙ってメシを食っている戦場ジャーナリストは、世界中にいることは確かだ。
それが良いか悪いかは別にして。

投稿者 matsuno : 21:48

2008年06月01日

「城山三郎」の由来

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『そうか、もう君はいないのか』 城山三郎、新潮社

城山三郎さんの自伝的純愛ノンフィクションになっている。
当時まだ高校生だった奥さんとの最初の出会いについて、「間違って妖精が落ちてきた感じ」と書いてある。

それからかなり時間がたって、偶然の再会。
事実とは小説より奇なり。そういうこともあるのか、とその「縁」の深さに驚く。

「城山三郎」は、名古屋の城山地区に3月にひっこした時にペンネームにしたそうだ。
日本の経済小説、社会派小説を引っ張った「城山三郎」は、意外なところで誕生していた。

『指揮官たちの特攻』も、奥さんの存在が反映されたものだったとは初めて知った。

「妖精」が先に亡くなるという悲劇を味わいながらも執筆活動を続けた城山三郎の心の支えは、やはり「妖精」だったのだろう。

この本は、短期間で、増刷を繰り返している。
137ページ目の写真を見れば、その理由がきっとわかるだろう。

投稿者 matsuno : 23:11

2008年05月27日

「オットーと呼ばれる日本人」とは

ゾルゲ事件で逮捕・絞首刑になった元朝日新聞記者で、近衛内閣のブレインだった尾崎秀実は、オットーと呼ばれる日本人だった。芝居からも、尾崎がかなりのインテリだったことがわかる。

尾崎のスパイ行為は、日本が戦争で崩壊する前に、日本を救うためにやったことである-それを前提に物語は展開していく。

尾崎が、ゾルゲのインターナショナルな発想に対し、あくまで日本民族であるというナショナルな考えを捨てないところが面白い。

驚いたのは、尾崎が関東軍参謀だった石原莞爾の主張に同調する意見をもち、一度会ってみたいと話すところだ。

芝居は言葉だ、とつくづく感じる。動きが余りなく、言葉のやりとりで物語が展開していく。
映画とはまったく違う。
メディアでいうと、芝居は新聞みたいなものだ。

投稿者 matsuno : 22:07

2008年05月18日

ジャーナリズムの英語

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村上吉男 2008 『国際ジャーナリストの英語術』 朝日新書

筆者の村上さんは、朝日新聞社の中では、チャーリー・村上と呼ばれていた記憶がある。日本を代表する国際ジャーナリストが書いた本。ロッキード事件の際に、コーチャンインタビューをスクープして日本のピューリッツア賞と言われる日本新聞協会賞を受賞している。

この本を読むと、彼の英語力の基礎は、米国留学で博士号取得にいたるまでの厳しいトレーニングにあることがわかる。この基礎が、やがて、アメリカ人よりも本格的な英語を使う日本人記者という評価につながっていったのだろう。博士号を取得して朝日新聞社に入社という経緯については初めて知った。

この本のおもしろさは、実際のジャーナリストとしての体験や、現代のメディアが抱える問題を織り交ぜながら、英語習得の技法が紹介されているところだろう。

情報操作である「スピン」の話や、大使館よりもジャーナリストを米国は重要視している話、さらにはコーチャン氏をどう口説き落としたのか、南部訛りとの格闘、「取材源の秘匿」をめぐる問題など、実践的な話がたくさん出てきておもしろい。

しかし、途中からかなり難しくなる。第4章の「英語の品格」ともなると、難しい英単語が出てくる。ここで、急に教科書的になって挫折しそうになるかもしれない。and, but, soなどの英語をどう品格のある英語に置き換えて話すのかということ。品格のある単語集「英字新聞が読めるようになる200単語」が付録についているが、悲しいかな4分の1ぐらいがわからなかった。「俺は、何年英語をやっているのか」という自己嫌悪にまた陥った(自己嫌悪は成長のエネルギーだ、と思い直す)。

後半に行くに従って、読みごたえのある英語の実践的教科書になっている。英語は、やはり、地道にコツコツやっていくしかないと痛感した。

英語教師から間違った発音を教えられてしまう日本の現状は、なんとかすべきだとつくづく思う。私は米国留学中に、単語の発音がまったく違うことになんども驚いた。小さいときに、発音だけは習得したほうがいいと思う。大学以降だと、発音を矯正するのはかなり難しいような気がする。

投稿者 matsuno : 14:47

2008年05月11日

「テレビ進化論」という本の混迷

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境 真良 2008 『テレビ進化論』 講談社現代新書

「テレビ進化論」という本が出た。表題につられて買った。しかし、うーん、面白い指摘もあれば、よくわからないところもある・・・。

大ヒットした「ウェブ進化論」の次を狙ったのだろうが、この本は、ごれまでの議論をまとめただけで、「ウェブ進化論」ほど、インパクトがない。しかし、それはしょうがないのかもしれない。

テレビ業界の人で、この本を買って読んだ人は多いと思うが、「だから何なんだ!」と言いたくなった人は多いだろう。要するに、論の展開も、結論も混迷している、というより、混迷せざるをえないようにも思える。それだけ、テレビの将来はわからないのである。

この本の良いところは、1,2,3章まで。「放送と通信の融合」がなぜうまくいかないのかについて、総務省と文化庁の対立問題を判りやすく説明している。ついでに、経済産業省のスタンスもわかる。ただ、このあたりは、日経新聞を読んでいれば、大体わかるし、テレビ業界の人にとっては常識である。初めて勉強する人には、わかりやすいかもしれない。

テレビ局の強さの秘訣が、「流通」を抑えている点である、という指摘は面白い。番組制作の現場にいた人間にとっては、うなづける指摘である。

テレビ業界の人たちが知りたいと欲しているのは、この著者が設定した「次のテレビ」と「テレビの次」の部分であろう。しかし、これが、混迷しているのである。これまで新聞報道されてきたり、業界内(広告代理店も含め)で言われてきたトピックスはどんどん出てくるが、明確な方向性が示されていない。まあ、それは無理な話だとは思うのだが・・・。

実際、テレビがどうなるのかは、誰にもわからないし、わかりにくい。コンテンツが勝負だというのだけはわかるし、流通を抑えることも大事だということもわかる。しかし、デジタル時代は、流通経路も様々だし、著作権もいまのままだと流通しにくい。広告費には限界があるので、販売促進費までとりこめないかという指摘もかなり前からなされてきた。コンテンツの有料配信だけではなく、コンテンツ配信は無料で広告で収入を狙う方式もすでになされてきている。しかし、どれもはっきりはわからない。

テレビのOSともいえるアクトビラにも期待がかかっているが、本当にそれがうまくいくのかどうか・・・。

そんなことは、まだ誰にもわからない。だから、この本も後半から、可能性の記述と著作権の不備の指摘に終始して、結局、何がいいたいのかわかりにくく感じる。後半部分から、非常に読みづらくなるというのが、率直な感想である。現時点でのトピックスの整理という点では、意味があるのだが…。

また、ギョーカイ関係者、特にテレビ局関係者が、違和感を感じる可能性もある。

それはなぜかというと、「ギョーカイ」に問題があると言いつつ、「ギョーカイ」を評価するというダブルバインドな表現があること。そして、もっとも問題なのは、コンテンツが血と汗の結晶であり、人海戦術で作られているという視点が欠落している点。別の言葉でいえば、番組制作や映像作品制作は、かなり訓練をつまなければできない分野であるという認識がないこと。

コンテンツを、何か工場のベルトコンベアーのように、ボタンを押せば大量生産されるもののように考えているのではないかと感じた。同様の考え方の違いは、ライブドアとフジテレビ、楽天とTBSの問題でも見られたものである。

Web2.0でいうUGCと、プロが制作するコンテンツとは、かなり意味が違う。Web2.0のCGMは、コンテンツを自動生成させる仕組みだが、これもプロが制作する作品とは違う。YoutubeにアップされるUGCとプロが制作する作品群も違う。将来的には重なってくる可能性はあるものの、それらを同一のレベルで論じることには、違和感がある。

さらに、この本では、デジタル時代のジャーナリズムに言及していない。マイチャンネルがビジネスの鍵かもしれないが、それがもつ落とし穴については触れられていない。コンテンツをビジネスの視点だけから論じることは、人間の心理から言っても不十分であるし、違和感を感じてしまう。

歴史的に見れば、映画業界に見放されたテレビ業界が、どんぶり勘定で人間関係だけで契約書も交わさずに番組制作をしてきた経緯があるのは事実である。しかし、一番問題なのは、デジタル時代を想定していなかったということである。つまり、テレビでの一回きりの放送だけを想定していたわけである。

デジタル時代になり、マルチユース(ウィンドウ)が可能になった段階で、テレビはどんぶり勘定で再利用が難しいと言われても、はじめから想定外のことだったのである。

逆に、昔の番組をDVD化するときには、当時のプロデューサーの電話一本でOKがでることもある。それがこれまでのギョーカイの慣習だったことも事実だ。

では、どうすればいいのか。私は、大事なことは2つあると考える。
1つは、最初にオールライツで契約を成立させる慣習をギョーカイ内に定着させていくことである。
そして、もう1つは、通信での配信も、放送と同じ「後払い」になるように、総務省と文化庁の早急な調整が必要だと考える。

この2つで、状況は大幅に改善されるように思う。

最後に、この本を買って読むべきかどうかだが、私は、①買ってもいいが、②前半をしっかり読み、③後半は疑問をぶつけながら参考程度にする、のがよいかと思う。そして、テレビの進化は混迷状態であることを理解するのが良い方法かもしれない。

投稿者 matsuno : 22:21

2008年05月10日

盛り上がらない朝ドラ「瞳」

「どんど晴れ」「ちりとてちん」と来て、今度の「瞳」なのですが、今1つ盛り上がらない。

「どんど晴れ」は、朝からドロドロの人間模様で、物語の展開のアップダウンの面白さとともに、ヒロインのインパクトで最後は視聴率24%をたたきだしている。映像も実にきれいで、カメラワークもよかった。

「ちりとてちん」は、師匠と弟子の物語の面白さのなかにも、泣かせるシーンが盛り込まれて目が離せなかった。

「瞳」は、すべてにわたってインパクトがない。視聴率16%をキープしていることが、不思議でならない。あのつくりなら、12、3%がよいところだろう。しかし、それでも16%をキープしているのは、「朝ドラだから」「いつか面白くなるだろう」と見ている人が多いからではないだろうか。ということは、NHK朝ドラは、15%ぐらいの基礎票はあるということか。

朝ドラ見ている世代で、朝から、下品な若者の振る舞いとひどい言葉づかい、ヒップホップダンスを見たい人はあまりいないだろう。瞳の着ている迷彩服に反感を覚える人もいるかもしれない。ある意味、こういうドラマ設定は、NHKでは冒険だったのかもしれない。

最近、このドラマは「崩壊した家族の再生物語」であるということが、すこしずつだが見えてきている。
主人公が、崩壊した家庭の再生のきっかけになるという展開は、「どんど晴れ」「ちりとてちん」と同じ設定ではある。しかし、根本的に、「瞳」の物語は面白くない。キャスティングも狙いはいいが、強引というか、ベテラン陣の中で主人公が浮いている感じがする。

と言いつつも、これから、すこしずつ面白くなるのだろうと期待しながら、あきらめずに見ることにしたい。ただ、何度も、見るのを辞めようとおもった崖っぷちの視聴者であることには変わりはない。

結局、そう思って見ているうちに、盛り上がりがないまま最終回がくるかもしれないが・・・。

投稿者 matsuno : 09:32

2008年04月26日

サーバーが・・・

休憩中でございます。

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投稿者 matsuno : 09:33

2008年04月14日

新版「夜と霧」、そして「生きる意味」

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新しい訳の「夜と霧」(V.E.フランクル)が出ていたというのは知っていたが、忙しさにかまけて読まなかった。が、なぜか、急に読みたくなった。今回は、数時間で読破した。
旧版の霜山先生が訳されたものは、学部生時代に読んだが、けっこう歯ごたえがあった。
が、この新版はあっという間に読み終えた。

(新版の訳は、池田香代子さんが担当されている。旧版には、分厚い解説と写真集がついている)

そして、改めて、この本のもっている力に驚き、感謝した。

アウシュビッツ収容所で、絶えず死に直面しながらも、最後まで生き残った心理学者であり精神科医の体験的分析記録である。

新版を読んで、いくつか再度噛み締めた。
生きる意味は、苦しみや死を含む全体としての生きる意味であるということ。
苦しむこととはなにかをなしとげること。

つまり、現在の苦しみや絶望的な状態から逃げて、過去の栄光や来るべきはずもない妄想に取り付かれることなく、苦しみや死も含めて生きることに意味があるということだ。

1944年のクリスマスから1945年の新年にかけて、多くの被収容者が死んだそうだ。
それは、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの希望にすがっていたからだと、フランクルは書いている。クリスマスになっても解放されず、人々は落胆と失望にうちひしがれ抵抗力がなくなって大量死につながったとしている。

「生きる意味」とは何か、というのは、誰でも考えたことがあるテーマであろう。
しかし、フランクルは、コペルニクス的転回が必要であると主張している。

「生きる意味」とは何か、を問うのではなく、我々自身が、その問いに立っているという事実。
つまり、我々自身の行動によって、答えは出てくるということだ。
「人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない」としている。

ここまで来ると、実存主義と似ていると思われる方もいるだろうが、実際に、フランクルは「実存分析」という心理療法の元祖である。

今の苦しみもまた、自分のもので、それを生きること自体が、自分の生きる意味であるということは、
なんと、すがすがしいことであろうか。
「涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ」と。

「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
という言葉も実存的だ。
自分が経験してきたことが、自分という本質を形作っていくというのが実存主義。
つまり、自分の人生は、自分の歩み方しだいであるということだ。
だから、苦しみを生きることも意味があるし、死を含めて生きることが、生きる意味であるということだ。
実に、さわやかである。

あるエピソードも紹介されている。
被収容者たちは、カロリーのない味の薄いスープと、ひとかけらのパンだけしか与えられず、日に日にやせ衰えていった。
ある日、1人のドイツ側の現場監督が小さなパンをそっとくれた。それは、監督が自分の朝食から取り置いたものだったという。それをもらったフランクルは涙をぼろぼろこぼしたという。
それは、「パン」というものに泣いたのではなく、その男が示した「人間らしさ」に対してだったと書いている。

そして、苦しいとき、自分の愛する人(誰でも良い)と心の中で対話することが、
どれだけ力となるのかも、この本を再読して気づいた。
心の中の自由までは、誰も奪うことができない。

最後に、フランクルは、心理学者の目をもっていたことも、生き延びた力になったと言っている。
つまり、「極限状態に置かれた人間は、いったいどうなるのだ」、という客観的分析の視点を持っていたことだ。自らも極限状態に置かれていたのに、よくそういう視点を保持できたなあと思う。

しかし、これは、ジャーナリストにも共通するものだ。
自分と他者がいる。しかし、もう1人、記者としての自分もいる。そういう感覚を持ったことがあるジャーナリストは多いだろう。自分という存在、そして観察者としての自分の存在。ルポルタージュを一度書くと、その心境はなんとなくわかる。

いずれにせよ、古今東西、大学生にとって必読の書であることは変わらない。
学部時代にはわからなくても、社会人になったら、よくわかるようになるはずだ。

「星の王子様」と同じように・・・。

投稿者 matsuno : 21:35

2008年04月10日

映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」

あさま山荘事件に関連する映画として、警察側の視点で描かれた映画「突入せよ! あさま山荘事件(2002)」がある。

この映画は、どーも佐々淳行の自慢話になっているし、役所広司が演じていてなんとなく違和感があった。

ただし、この映画の面白いところは、警察という組織体、警察庁という組織体の実情がわかるところである。警視庁機動隊の2機と9機、さらには長野県警との確執。それに後藤田長官の考え方などが、わかる。

この事件は、多くの学生が「総括」という名のリンチで死亡しているし、警察官も殉職している。その後の赤軍派が起こした世界的なテロの数から言っても、当然、連合赤軍側からの視点、当時の学生紛争当事者の視点で描かれた映画がみたかった。

そして、若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が封切られた。なかなか見にいけなかったが、やっと見た。
すさまじかった。

http://wakamatsukoji.org/

私が小学校、中学校のときに学生運動はピークだった。
東大安田講堂の闘争、よど号ハイジャック事件、そして「あさま山荘」事件・・・。テレビに釘付けになった。生中継というテレビの威力がいかんなく発揮された。
その中でも、「あさま山荘」事件は、実際に銃で打つという事件が生中継されてお茶の間に届けられた。これは、テレビの歴史でも初めてのことだった。事件当時のVTRを見ると、実況中継しているアナウンサーもそういうテレビメディアの威力とともに悲劇的なメディアの現実を語っている。テレビ放送史上最高の視聴率(NHKで89.7%)を記録している。

この映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を見て、初めて事件のバックグラウンドがわかったような気がする。
当時の三派全学連、ブント、そして、赤軍派の誕生、革命左派(京浜安保共闘)と「連合赤軍」の結成。

重信房子と永田洋子の2人のキャスティングには、なるほどと思った。

「総括」として、自分で自分の顔が変形するまで殴らされる遠山美枝子を坂井真紀が演じている。この壮絶な場面には、ショックを受けた。当時、流行語にまでなった「総括」とは、こういうことだったのかとあらためて認識した。

また、この「あさま山荘」事件には、加藤3兄弟というのが出てくる。しかし、一番上の兄は「総括」される。2人の弟たちも、兄を殴るのである。一番下の弟は、まだ高校生だった。兄はその後、極寒の中に放置され死亡する。

革命的精神が足らないとか、自らを共産主義化しろとか、反革命的、スターリン主義的という理由で処刑されていく。10人以上が総括の名の下に殺されていく事実は、もはや狂気としか思えない。

あさま山荘から銃を打っていた光景を「革命的」と評していた人たちも、その後に総括の事実が明らかになるにつれて、驚愕と落胆を隠し得なかったのではないだろうか。

この映画を見ると、人間とはなにか、ということを考えざるをえなくなる。

この映画の中には、中央大学も登場する。学生がロックアウトする中央大学内部の様子が描かれている。当時は、中庭が校舎に囲まれていて、比較的安全であり、かつ出撃基地としては格好の場所だったらしい。法学部長室で彼らが議論する場面も出てくる。ある意味、中央大学は、拠点だったようだ。

私は記者時代に、こうした学生紛争時代の問題も取材したのだが、その中で、赤軍派議長の塩見孝也氏に京都大学でインタビューしたときのことが印象に残っている。

彼は、「赤軍派と革命左派がいっしょになって、うまくいくはずがなかった」と、総括事件の原因は「連合」にあったと分析していた。

また、ある赤軍派(よど号ハイジャック犯)が実は国内の町工場で働いていて逮捕された事件、別のメンバーが米国で逮捕された事件も取材した。そして1人が箱崎のバスターミナルで逮捕された事件については、取材中に意外な事実を聞いた。

赤軍派は、重信房子被告がすでに解散宣言を出している。

こうした関連の事件については、多くの書物が出ているが、この若松孝二監督の映画も、この事件だけでなく人間とは何かについて理解を深める上で必見だろうと思う。

投稿者 matsuno : 22:00

2008年03月29日

ちりとてちん最終回のがっかり

「おかあちゃんみたいにはなりたくないんやー」と言って小浜を飛び出し、
そして苦労して女流落語家になった若狭。

最後に、落語家辞めて「おかあちゃんみたいになりたい」で締めくくる。

脚本家は、計算して最後のきめ台詞を書いたのだろう。

でもね、
仕事とかキャリアって、そんなに簡単なものなのでしょうか?
すごく、違和感があった。
この違和感を感じているのは、私だけではないでしょう、きっと。

主婦は大変な仕事だと思いますし、
女性にとっての幸せは何かを考えれば、今回の展開はありかもしれません。
でも、それって、ドラマの展開としては、あまりにもありきたりではございませんか。

糸子には糸子の人生、若狭には若狭の人生があってよかったのではないでしょうか。
脚本の落としどころは、どうにでもなったような気がします。

草々の分娩室前の号泣も、できれば彼の1人ぼっちだったことからの回想シーンぐらい入れて欲しかった。あれでは、余りにもどこかのドラマで見た風景で、泣けませんでした。泣きたかったのですが。

郷里を飛び出して、苦労して見つけた落語家の道を、「なんか違う気がする」という一言で、
母親やおかみさんになるんでしょうか?
すごく不自然な感じがします。
師匠の落語を受け継いでいくと、若狭さんは言っていたのではないでしょうか?
祖父がかけるテープで落語を聞きながら育ってきたのではなかったのでしょうか。
女流落語家というキャリアを、そんなに簡単に捨てられるものでしょうか。

このドラマの面白さは、何がやりたいかわからない女子高生が、女流落語家になっていくというキャリアにもあった。だから、応援していた人もいたかも。でも、あっさりやめました。

世の中で、サラリーマンやって、仕事やっている人には、どういう風に見えたのでしょうか?
キャリアをつんでいる女性にはどう思えたのでしょうか?

落語家って、サラリーマンじゃなくて、自由業ですから、
別に辞めなくてもいいのではないでしょうか。
あるいは、休業でもいいんじゃないか、と思ってしまいます。

ちりとてちんも、師匠が復帰するところまで、草々が破門され、そして戻ってくるまで、師匠が亡くなるまで、そこまでが一番面白かった。

その後に、うそばっかりつく弟子が入ってきてから、展開が今ひとつ盛り上がらないし、ストーリーテリングと演出がかみ合わない。回想シーンには、なんと「三脚らしきもの」まで映っていたような・・・。

師匠亡き後は、小草若が小浜で落語に復帰するところ、四草までが「そこぬけにー」と言って迎えた場面は泣けました。しかし残念ながら、あとは、なんだか感動もなく、平凡に終わってしまった感じかな。

どんど晴れは、最終回で24.8%の視聴率をたたき出していたが、今回はどうでしょうか?

ただ、全体的に見れば、ちりとてちんは、すごく良いドラマだった。
特に、弟子たちの友情が。それに、師匠の演技力が。脚本も途中までは、最高によかったですね。
これまで見てきた連ドラの中では、個人的にはベスト5に入るかもしれない。

と、最後は、フォローしておきたい。続編に期待したい。もし、あるなら。

続編では、若狭は、落語家に復帰して欲しい。もしかしたら、そういう風に、すでに脚本ができているのかもしれませんね。もし、そうだとすれば、かなりの仕込みだと思いますが…。

投稿者 matsuno : 22:10

2008年03月26日

研究室の 花瓶に花の ある日かな
                         (松野、1人静かに詠む)

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投稿者 matsuno : 15:50

2008年03月22日

生きる力

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この時期は、毎年毎年、卒業生を送り出さなければいけない。
濃いゼミ活動をしているせいか、送別会のたびにうるうる来たり笑ったりしなければならなくて、けっこう大学の教員というものは、ハードである。
そのたびに、自分は老いていくのかあ、と思ったりもする。

みんな、社会に出たら、大学とは世界が違うので、けっこう落ち込むことがあるかもしれない。

私は落ち込んだときは、必ず思い出す言葉がある。
それは、高校時代にはまって読んだサルトルの一連の文章だ。

まあ、わかりやすくいうと、
どんなにぼろぼろになっても、失敗しても、
もうだめだと思っても、自分の存在理由がわからなくても、自分が透明な存在に思えても、

それでもまだ、自分の目の前には、真っ白な未来が広がっているということだ。

その真っ白な未来をどう生きるか、どう色づけるか、どう形作るかは、自分の自由だ!
ということだ。

いろんな物は、まず本質が決められて生産されている。
PCも机も、ペンも。
しかし、人間はまずこの世に産み出されてしまう。
そして、そこからどういう人間になるのか、その人間の生き方で本質が決まっていく。

つまり、人間は「実存」が「本質」に先行するわけだ。
だから、自分を未来に投企して生きることで、あとから自分の本質が作られていく。

自分の人生は、自分でデザインできるし、自分なりの生き方ができるということですな。

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サルトルの思想は、その後いろいろ批判された部分もあるのだが、
悩めるときに、救ってくれることは間違いない。
人間とは何か、という問題を立ち止まって考えるよりは、
まず歩き出したいね。

自分の頭で考え、戦略を練り、行動する。
自分を未来に投企して、生きたい。

どんな絶望の底にあっても、まだ自分の前には、真っ白な未来が転がっている。
私は、いつも、そう考えることにしている。
それは、高校時代から、変わらない。

卒業していく皆さんに、幸多からんことを、お祈りします。

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在校生についで言っておくと、

表現活動というのは、未来に自分を投企して生きることと同じですね。
企画して、取材して、執筆したり、番組作ったりして、何か新しいものを創造していく。

でも、本当は、その一連の活動を通して、自分自身の本質を少しずつ形作っているわけですね。

だから、自分を振り返って、ブログを更新するように言っておる訳ですよ。
(まあ、なかなか更新してくれませんが・・・)

自分の行動を振り返ってみる。一連の取材過程、表現過程を振り返ってみて、自分で何かに気づくこと。
その瞬間に、人間は成長するものです。
だから、「振り返り、見つけたことを記録しておく」ことは、極めて重要だと思いますね。

ということで、プロジェクト終了後は、ブログは、必ず更新のくせを。自分の成長のためですぞ。

投稿者 matsuno : 22:55

2008年03月21日

38度線と関門海峡

下関が舞台の「チルソクの夏」を、再び見た。
「チルソク」とは、7月7日の七夕のこと。
下関と釜山で交互に1年に一度開かれる親善陸上競技大会を舞台にした、
釜山の男子高校生と下関の女子高生の淡い恋物語である。

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この映画で一番好きなシーンは、関門海峡の人道で、山口県と福岡県の境界をまたいで、2人が語り合うシーンである。

自分は外交官になって38度線で分断された北と南を統一するのが夢だ、と青年が語る。
それに大して女子高生の郁子が、17歳でよくそんなこと考えられるね、という。
日本は平和で、テレビ番組のことや誰がかっこいいとかそんなことしか話さないと語る。

それに、青年が語る。
「コリアも、そんな平和な国になりたい」、と。

ここで「韓国」ではなくて、「コリア」と言わせているところが、監督の北と南の双方への配慮を思わせる。
在日の多い下関出身の監督らしい表現だ。

この映画の時代は、朴正煕大統領暗殺事件、光州事件などの大事件が起きたころだ。
そして、私が最初に韓国に仕事で出されたときにも、夜12時以降は外出禁止令が出されていた。
高速バスでソウルからテジョンに向かっていると、M16自動小銃を持った兵士に職務質問を受けたこともあった。

あれから25年以上が経った。
しかし、まだ朝鮮半島は38度線で分断されている。
あくまで「休戦ライン」であって、戦争は継続している。

北朝鮮にも4回取材に行った。
38度線の板門店は、南からも北からも訪れた。
なぜか、北からのほうが、安心できた。
南から入ると、「銃撃で死亡しても文句言わない」と署名させられるからだ。

私が学生時代、バイトで教えていた塾に、父親が外交官という韓国人の中学生がいた。
名前は、そういえば「李」くんだった。
彼は、ソウル大学に行って、無事に外交官になっているだろうか・・・。

この「チルソクの夏」には、歌手の山本譲二も出てくる。
彼は、下関出身である。
彼が挿入歌で歌う五木ひろしの「雨に咲く花」が心にしみる。

この映画には、上野樹里も出演しているが、まだ無名の時代である。
ただ、主役を食うぐらいの存在感がある。

監督は佐々部清。「陽はまた昇る」「半落ち」「カーテンコール」「出口のない海」「夕凪の街 桜の国」などを手がけている。
彼もまた下関出身。だから、この「チルソクの夏」には、かなり強い思い入れがあるのだろうと思う。

投稿者 matsuno : 23:30

2008年03月16日

高浜町長暗殺???

コンビニに立ち寄ったところ、物騒な見出しを発見。
なんだ、なんだ! 
毎年夏に訪れている福井県高浜町で、何が?
「高浜子ども放送局」に毎年出演してもらっている、今井町長に何が?

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週刊現代3月29日号

夏に「漁火想」というイベントが行われる平和そのものの町だが、そうだ、原発の町だったことを思い出した。

プルサーマル計画が進められようとしていた矢先に、問題が発生。
内容は、英国の核燃料会社がMOX燃料のデータを改ざんしたことが発覚したため、今井理一町長が計画の見直しを求めた。このためプルサーマル計画推進派の電力会社関係者が、今井町長さえいなければ、同計画を進められると、町長の暗殺を業者に指示したという内容。
うーん、なんか極端な話ではあるが・・・。

これが本当かどうか、どの程度の話なのか、そして、詳細な事実関係は不明。次号の週刊現代と、関西電力側の今後の対応を待つしかない。

しかし、「プルサーマル」とか「MOX燃料」とか、原発関係は専門用語がいっぱい出てくるので、しっかり調べて読んで欲しい。

投稿者 matsuno : 23:44

2008年03月01日

「フルスイング」というドラマと中大の関係

NHKの土曜ドラマといえば、鶴田浩二が主演した「男たちの旅路」の印象が強い。
それ以外は、あまり印象に残っていない。
それ以降、土曜ドラマは視聴率も低迷していたらしい。

しかし、今回放送された「フルスイング」は、14%以上を記録したらしい。

私は、高橋克美と蘭ちゃん(キャンディーズ全盛時代を知っている世代らしい)がキャスティングされているので、かかさず見た。
いやー、高橋克美が良かった。実に良かった。
さらに、ドラマの主題歌となった夏川りみの「あの花のように」も、内容にピッたしでした。
エンドロールだけで、感動してしまった。

このドラマには、中央大学が2つ関係している。
1つは、高橋克美が演じた主人公・高畠導宏さんは、中大野球部出身。南海ホークスに入団したものの、ケガで打撃コーチに回った。

ロッテオリオンズ、ヤクルトスワローズ、ダイエーホークス、中日ドラゴンズ、オリックスブルーウェーブ、千葉ロッテマリーンズの7球団で、落合、イチロー、小久保などのべ30人以上の著名バッターを育てたという。

この高畠さんがコーチから福岡県私立筑紫台高校の社会科教諭に就任。その高校での巻き起こったいろんな学生との波乱と感動の物語をモチーフにしたドラマ。

博多弁がとても懐かしかった。若戸大橋が映っていたので、ロケ地は北九州も入っていたのだろう。また、野球のシーンなどは、多摩地区で撮影されているそうだ。

さて、もう1つ、中央大学が関係しているのは、原案となった本「甲子園への遺言~高畠導宏の生涯」を書いた門田氏は、中大法学部出身、本名は門脇。現在、週刊新潮のデスク。マスクラット・りようきちとI内がインターンシップで世話になった先輩。

中央大学出身者も、いろんなところで活躍している。

ちなみに、この原案は、最初、某民放に持ち込まれたらしいが、ドラマ化したのはNHKだったそうな。
結果的には、正解だった。

ついでだが、伊藤蘭が出た映画では、「ヒポクラテスたち」(大森一樹 監督)が一番印象に残っている。
この映画の中で、伊藤蘭に、「蘭」という当時売れ筋のタバコを吸わせている。
まあ、「フルスイング」とは関係ないのだが。

蘭ちゃんは、アイドル歌手から引退していたのだが、この映画で女優としてデビューしている。
そして、その延長線上に「フルスイング」がある、と考えれば、関係はありますな。

投稿者 matsuno : 22:40

2008年02月26日

二・二六事件、72年目の慰霊

渋谷の法務局の前を通りかかった。
NHKのちょうど反対側。
一升瓶、花束、そして線香の煙がたなびいているのが、目に入ってきた。

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よく見ると「二・二六事件・・・」という文字があった。説明を読んだ。
旧東京陸軍刑務所跡。
そうか、ここで青年将校ら17名が処刑されたのか・・・。

二・二六事件の記録映像を見ると、都心は大雪である。
しかし、今日は、春のように暖かかった。
温暖化の影響なのか、それとも72年前が異常だったのか。

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二・二六事件については、軍がこの事件をきっかけに政治に大きな力を持ち始めると習った。
しかし、北一輝や青年将校に関する本を読むと、当時の腐敗した政治と財閥支配を憂えて行動したことがわかる。彼らは「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げていた。
しかし、青年将校らは「反乱軍」となり、処刑される。

私も、二・二六事件に関しては、ドキュメンタリーを制作しようとして完パケできなかったことがある。
あまりにも情報があいまいかつ錯綜して、放送に出せるまで行かなかった。
ある有名な作家が、青年将校に檄文を送っていた事実や、
青年将校が処刑されずに、高砂義勇軍の指揮官としてニューギニア戦線で戦ったという未確認情報などである。

いまだに、謎の残る事件だが、この事件を当時の軍部は大いに活用する。
軍のクーデターを押さえ込めるのは、軍しかないからだ。
そして、日本は、泥沼の戦争へと突き進んでいくことになる。

投稿者 matsuno : 21:43

2008年02月25日

加藤虎ノ介は四草そのものだった。

ドラマ「ちりとてちん」の中で、徒然亭四草を演じている加藤虎ノ介が、NHKスタジオパークに出演しているのを、たまたま途中から都内某所で見た。

彼は、ドラマの中の四草と、ほぼ同じ雰囲気というか、そのまんまですな。
あだ名は「野良猫」と言っていたが、その「野良猫」を今回のドラマのスタッフが拾ったそうな。

番組途中に、脚本家からのメッセージが読み上げられたが、涙をこらえ切れなかった。彼の売れなかった時代の人生を垣間見たような気がした。場末の劇場の舞台に立っていた売れない俳優が、いつのまにかドラマの役柄が当たってスターになったわけですからね。

「無名の自分を選んでくれたスタッフの人たちの顔に泥を塗ることは出来ない! 」

この言葉、しびれましたなあ。視聴者の人気をとろうとかそんなことではなく、プロとしての覚悟がこめられていると思いました。

この俳優の演技は、実に心に残る。
クールさ、非情さの中に、人間的な悲しさや優しさを、垣間見せるから。

なんでも、小学校一年生の時に病気で入院し、学校に通えなかった経験があるそうだ。
その経験が、あの演技とは思えないクールさの根底にあるのかもしれません。

スタジオパークは、たまに時間があるときに見るが、今日の生放送は、ドラマ「ちりとてちん」と同じぐらい面白く感動的だった。NHKスタッフの仕掛けもうまかった。

投稿者 matsuno : 22:21

2008年02月23日

修士と博士

これは、何だと思われるか?
ハンバーグ?
それもチーズが上にのった、イタリアンハンバーグ?

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答えは、焼きリンゴにアイスを乗せたもの。
焼きリンゴのすっぱさとアイスの甘さが混ざって、それはそれは美味しい。
ただ、量が多すぎた。

なぜこれを食べたのか。
今日は一応、大学院生のお疲れさん会でした。

今年度は、大学院博士前期課程で5人が修士号を取得する見込みだ。
5人も面倒見るのは大変だったが、内容はそこそこ良かった。
オリジナリティあふれるものばかりで、読んでいても面白かった。

この5人のうちから2人は博士後期課程に進み、今度は博士号取得を目指す。
査読付きの学術論文誌に2本の論文を掲載し、さらに、博士候補者試験をパスし、
そして博士論文を書き上げて提出し、1時間の公聴会、1時間の質疑応答、1時間の口述試験をこなして審査を受ける。外国語も2ヶ国語できることが条件だ。

道のりは長いが、コツは1つだけ。それは、自分の論文を自分が面白いと思うこと。
自分の論文が、いかに面白く新しい発見があるのかを心に留めて、自信を持って書き上げプレゼンすること。

自分の修士論文を書き上げて燃え尽きて、そのまま放置してしまう人が多い。
しかし、自分の論文を自分が「面白いですよ」と他人にプレゼンできれば、自分が自分の論文をよくわかっているということ。そして、博士論文への道は見えてくるはず。

何が面白いのか、もう一度、考えてみると良い。

私のゼミは、マスコミに就職するものが多いが、最近は大学院進学者も多くなってきた。
自分の大学の修士課程に進んで欲しいとは思うが、やはり他の大学の大学院で修行して欲しいとも思う。不思議な心境だ。

判断基準は、1つ。中央大学で研究するより他大学院のほうが研究環境が良い場合は、惜しみなく送り出す。しかし、私の研究領域については自信を持って、中央大学に残るように薦めている。

投稿者 matsuno : 22:09

2008年02月15日

あおばみんメディアリポーター

横浜市青葉区が中心となり、CATVのイッツコムが協力して開催した「あおばみんメディア・リポーター養成講座」が無事に終了した。上映会の後に、認定証と修了証が授与された。

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全部で7回の講座。内容が濃く、私は内心、スタッフは倒れるんじゃないかと心配していたが、なんとか無事に7本の作品が完成した。私も2回ほどお手伝いさせていただいたが、なかなか面白かった。役所のTさんも、市民の中核のNさんも、なかなかのマネジメント能力だと思う。

上映された作品は、普通の記録作品からインタビューまでが入ったドキュメンタリーまで様々だった。驚いたのは、「鉄(くろがね)の獅子舞」という作品。感動しました。
昔ながらの獅子舞が地域に残っていて、各家を回って無病息災を願う。もちろん、子どもは獅子舞に泣きそうになるのだが、その後、ひょっとこが出てくると笑顔に変わる。そのあたりが、実に素直に描けていてよかった。

地域映像とか市民映像というのは、こういう何気ない獅子舞とひょっとこの踊りに、人の幸せとか温かさとか生命感を感じるからすばらしい。映像はすごく荒削りだけど、あの映像は、地域の人にしか撮れないと思う。

「落ち葉のプールとやきいも」という作品も、面白かった。焼き芋って、ぬれた新聞紙でくるみ、さらにアルミホイルでくるむとおいしくやけるなどということは初めて知った。

出初式も、お寺の年越しも、どの作品も、面白い。地域にありながら、地域の人は知らないのではないだろうか。

横浜市青葉区といえば、ドラマの舞台にもなった田園都市線のおしゃれな町。しかし、実は土着のものがたくさん残っている歴史ある町なんですな。あらためて気づかされました。実に面白かったですね。

イッツコムは、大手のCATV会社だが、1チャンネルを市民に開放している。これから、定期的に市民制作番組の放送が始まるらしいが、楽しみである。私も、イッツコム視聴世帯なので・・・。

投稿者 matsuno : 21:05

2008年01月30日

ネコの存在意義

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近くを走る首都高速道路。
喧騒の中、すさまじい勢いで会社へ向かうサラリーマンの群れ。
安っぽいコーヒー屋で朝食を駆け込んでいるOLたち。
いつも利用している都心の地下鉄の駅付近の光景である。

でも、天気の良い日に時々、この毛並みのいいトラネコが、
堂々と歩道のど真ん中に鎮座していることがある。
殺気立っている人たちも、このネコを見つけると、自然と顔をほころばす。

「キャーかわいい」と写メする人たちに対しても、けっして動じることもなく、このネコは堂々たるポーズを維持しつづけるのである。

このネコの存在が、この駅を利用する人たち、そしてこの近辺の人たちに、どれだけの癒しを与えているのだろうか。想像すると、かなりのものだろうと思う。
少しでも余裕がある人なら、誰でもケータイで写真を撮りたくなるようなネコである。
私も急いでいたので、こういう写真しか撮れなかったが、次回は、じっくりと撮りたいと思う。

ネコは視聴率を取れるということで、私が制作した映像作品にも、ネコは多用した。
ただ、どーも、今考えてみると、私自身がネコとかイヌが結構好きなんだなと思う。

引退したら、春は菜の花、夏はひまわり、秋はコスモス、冬は椿の花咲く庭のある田舎の一軒屋で、イヌとネコと一緒に、自給自足の暮らしをしたいものだと思う。

投稿者 matsuno : 18:21

2007年12月31日

2007年のご愛顧ありがとうございました。

2007年もいろいろありました。
一番大きなニュースは、プロデュースした「新聞ブログ」が、工業デザイン最高の賞である「グッドデザイン賞」を受賞したことでした。

そして、この一年、このブログを読んでくださった読者の皆様、誠にありがとうございました。

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投稿者 matsuno : 16:36

2007年12月22日

「手持ち」多用の時代?

「ちりとてちん」第12週は、また1つの盛り上がりでした。。
脚本も、演出も、そして手持ちを連発するカメラワークが、実によかった。
ステディカムを使っているカットも多数ありましたなあ。

物語の展開も、伏線を張りまくり。さらには、2つの物語展開を同時進行させるあたりが、演出のうまさでしょうか。

幼くして親を失った草々は落語家の草若に拾われる。しかし、草若には実の息子の小草若がいた。ことあるごとにけんかする草々と小草若。あるとき、小草若は人をどつくのだが、それを草々が「自分が殴った」と嘘を言って小草若をかばうのである。しかし、殴った相手がわるすぎ。結局、師匠の草若は事態を収拾するために、草々を破門にしてしまうのである。

その後、再び戻ってくるシーンがあるのだが、たった15分1回の展開が、それはそれは涙なくしては見れません。カメラワークも、音楽のタイミングも、実によく計算してあります。詳細は述べません、というより、述べると面白くないので、いつか再放送の時にでも見てください。

若狭の役(貫地谷しほり)も、映画「スィングガール」の時よりも、実に味のある演技を披露してますなあ。これほど、演技力があるとは思わなかった。驚いた。

このドラマは、やっぱり大阪局にしかできないですね。兄弟弟子の掛け合いは、やはり関西のノリでないと無理です。

しかし、「三脚でフィックス」という基本を見事に打ちくだき、「手持ち」を多用するカメラワークは、やはり登場人物の心を描くうえでは極めて効果的です。

投稿者 matsuno : 22:40

2007年12月14日

まだ紅葉・・・

多摩キャンパスも、すっかり寒くなったが、昼間はまだなんとか楽しめる。

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都心の紅葉は今ひとつだが、さすが多摩だけに、紅葉は学内でもきれい。

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でも、なんだか寒々としているなあ。これが大学のPRになるのかならないのかは、見る人の心境によるでしょう。なるだけ、前向きに見てほしいね。前向き、前向き・・・。

投稿者 matsuno : 21:00

2007年12月05日

「恋空」とケータイ

映画「恋空」をぼろくそに批評したが、メディア論的に見れば、いくつか発見があった。

1、ケータイなくして「恋空」なし。
 まあ、そもそもケータイ小説だから、ケータイが中心にあるのだが、ここまでケータイが高校生のコミュニケーションの中核をなしているのかと驚いた。ケータイがきっかけで出会いがあり、ケータイで連絡を取り合い、最後の別れもケータイの「テレビ電話」だった。
 とくに、ヒロがガンで、病状が急変する場面。ミカが写真のプリントをもって病院にもどる途中に、ヒロの病状が急変して危篤に陥る。ミカが走りながらテレビ電話でヒロと最後のやりとりをする場面が出てくる。こういうのって、まさにケータイの進化があって成り立つシーンである。FOMAあってのシーンだった。

2、ケータイが作り出す社会性に乏しいバーチャル・メディア世界に住んでいる高校生。
 私が違和感をもったのは、集団強姦という一級犯罪が起きて首謀者もわかっているのに警察に通報しないこと。親もまったく行動しないこと。これはある意味、社会性とはまったく無縁の世界の中に住んでいる人間の発想でしかない。妊娠しているのに、突き飛ばされ流産する。でも被害者はなんら抗議することがない。本来なら刑事、民事ともに問える事件である。しかし、そういう社会的行動にでない。両親もまったく行動しない。
 この物語が、「実話に基づいた」と言っている割には非常識な部分が多くて、これは社会的な常識を欠いた人の創作に思える。「法の上に眠るものは救われず」という言葉もしらないことだろう。
 ヒロとミカのやっていることも、きわめてオツムの悪い高校生のやることで、自己中心的である。「激流に飲み込まれた」という表現を使えばきれいだが、社会性があるとは到底言えない。

 学校という現実社会とは隔絶された窒息しそうな世界に住んでいる高校生にとっては、こういう社会性のない主人公が織り成す社会性の無い世界の物語が、逆に真実性をもって迫ってくるのかもしれない。だから、ガキの物語なのだ。社会人であれば、大変なことになるだろう。

3、ケータイは保護者、家の概念を崩壊させている。
 固定電話時代には、彼女の家に電話するのに、誰もが緊張した。親父でも出ようものなら、大変だからである。1対1がコミュニケーションするなんてことは不可能だった。しかし、ケータイの出現で、それが可能になり、別に相手の親父など関係なく電話することができるようになった。これは便利だが、社会性やコミュニケーション能力は壊滅的打撃を被っているに違いない。

ガキは、固定電話によって成長していたのに、ガキはケータイによって成長が停止してしまったのかもしれない。

 無防備なまま、出会い系サイトに入り込み、そのままだまされたケースは後を絶たない。罠をかけるほうはきわめて問題だが、罠にかかるほうも問題である。
 そして、ケータイに対するリテラシー教育をしないケータイ会社、教育現場、ケータイサイト運営者も問題である。これだけケータイは非社会的空間を生み出しているのに、なんら教育がされてないことは恐るべきことである。

「恋空」という映画のヒットは、ケータイが作り出した非現実的、社会性欠如のバーチャル・メディアワールドに、若者たちが取り込まれてしまっている現実を浮き彫りにしているのではないだろうか。

投稿者 matsuno : 22:21

2007年12月02日

「恋空」という気絶もんの○○

携帯Webサイト魔法のiらんどに連載され、書籍化され、さらに映画化された。
TBSが制作に関係しているので、見に行くことに。とても、おやじが見に行くような映画ではない。プレビューか試写会で見ればよかったものの、機会を逸していた。私がそれでも行ったのは、ある意味、携帯小説が映画化されるとどうなるかに興味があったから。

http://koizora-movie.jp/index.html

しかし、結果は、あまりにも、がっくり。
軽すぎるし、過激なものを詰め込みすぎだし、断片的だし、演出がぼろぼろだし・・・。つまり、「電車の中で携帯で見るなら刺激的で感動するかもしれないが、映画では感動できない」ということだ。

これは、携帯、小説、映画という3つの媒体がもたらす情緒の伝達の違いかもしれないと思ってしまった。

しかし、そもそも、この「実話にもとづく」というのが、どーもうさん臭く思ってしまうのだ。清純な女子高生が1年生の時に、「恋愛、元彼女の依頼による集団強姦、学校内でのH、妊娠、流産、別離」を経験し、さらに「別の大学生との恋愛、元彼のガン、そして、よりを戻し、死別」を経験するのである。
視聴率狙い、ヒット狙いのキャッチイベントを次々と並べたてたとしか思いようがないのである。

「実話にもとづく」なら、その証拠を明らかにしてはどうでしょうか?

大体、ガンや白血病などを物語の展開に使用するワンパターンには、「またか!」とあきれると同時に、本当にそういう病気になったひとの身になってみてほしいと苛立ちさえ感じた。

携帯なら、こうした過激でバラバラのものを、せつな的に読めるのかもしれない。それに、学校に閉じ込められている中高生なら、こういう物語にひきつけられるのかもしれない。気持ちはわかるような気がする。

しかし、社会人からすれば、頭スカスカのガキ、不良少年少女の子どもの物語にすぎないような気がする。一見すれば、そうだ。

ただ、この物語がヒットした根幹には、頭スカスカのガキが織り成すお馬鹿な内容の中に、「純粋なもの」を皆が感じるからかもしれない。つまり、どーしようもない物語の展開なのだが、「純愛」が見え隠れするからだろう。

でも、私は、この映画「恋空」を見ることを、お勧めしない。目の肥えた方々、メディアリテラシーの高い方々なら、きっと「金返せー!」ということになるから。

原作、脚本、演出、プロデュースのどれも、B級。この映画を見て泣けた人は、作り手の罠に簡単に落ちた「おめでたい方々」でしょう。こういう作品に、新垣結衣を投入したとは悲しい。新垣結衣は、視聴率、ヒット狙いのPの犠牲になった特攻隊みたいなものだと感じた。よく事務所が許したものだ。

この映画の制作にはTBSが関係しているが、なんだかTBSの凋落ぶりを象徴するような作品だと感じた。話題のもの、視聴率狙いの過激なものオンパレード、旬なタレント、安易なオキマリのパターン、を追いかけているとは嘆かわしい。

重厚なドラマや映画を作っていたTBSの復活を強く願う。

最後に、この映画で1人だけ味を出していたのが、2番目の彼氏になる関西弁の大学生。この人物は、小出恵介。「パッチギ」「リンダ・リンダ・リンダ」で好演していたので覚えていた。この役者は、きっと息が長い。ちなみに新垣結衣は、沖縄出身だから許す。

・・・・「恋空」について、こういう厳しいことを書いた自分は、もう若くないねー。自分が高校生だったら、正直言って、感動してたかもね。すこしばかり、そう思う。

投稿者 matsuno : 21:18

2007年11月25日

「点と線」

松本清張原作の「点と線」は、大学時代に読んだ。
「東京駅13番ホームの4分間」をめぐるミステリーは、詳細な記憶はなくなっていたが、ストーリーだけはいまだに覚えていた。

この複雑で、二転三転する物語展開をどう映像化するのか、大変興味があったが、やはり感動した。

http://www.tv-asahi.co.jp/tentosen/

テレビ朝日も、よくぞこの大作に挑んだものだと思った。テレビ朝日のドラマ制作技術も進化したと思った。この手のドラマは、民放ではTBSしか作れないと思っていたので・・・。

今回、小説を映像化するとこうなるのかという驚きとともに、昭和30年代がCGとセットで見事に描かれて、大変懐かしかった。

新しい発見は、これは反戦ドラマの味わいがあったのだということだ。鳥飼刑事は上海に駐屯していた日本陸軍の兵隊あがり。上等兵までしか上がれず、戦友は皆死んだと語る部分に、松本清張の強い反戦意識を読み取った。大学時代には、気づかなかった部分だ。上層部が逃走するのに、虫けらみたいない一兵卒は死ぬまで戦うことを強いられた。自分も死にたくない、相手も殺したくない、早く故郷に帰りたかったんだ、と鳥飼刑事に語らせている。

たけしという役者は、やはりすごい。朴訥な単調なしゃべりで表情を変えない演技だが、それがすごみとともに、なんともいえない深い味をもたらす。視聴者をして、彼の心情を汲み取らなければならないという作業を喚起させるのだ。そして、突然の彼の行動に、いつしか目を離せなくなる魅力を内包している。

鳥飼刑事が、安田に戦友の話をするとき、妻の安田亮子に自分の推理をぶちまけるとき、警視庁を去るとき、そして、博多に向かう電車の中でつぶやくシーンには、実に感動させられた。「女はかわいそうなんです。男にほれて死んでいくんです」というセリフは、渋くて深い。

最後に、老いた三原刑事の鳥飼刑事の手紙を読んで嗚咽し語った言葉。「生きているうちに泣けてよかった」というセリフにも、視聴者の多くが泣けたことだろう。

事件の舞台となった福岡県の香椎には、花園と遊園地がいっしょになったような所があって、学生時代に何度か行った場所である。デートだったり、合コンだったりで・・・。だから、あまり小説が好きでなかった私が、この小説だけは読んだ。

松本清張は社会派ミステリーの草分けでもある。ドラマを見ていると、自分が東京地検特捜部を担当していた時代を思い出した。政治家は、法務省を通じて圧力を検察にかけてくる。いつもは、反権力で公正中立である記者も、そういう時は、特捜部の検事を応援したくなる。(ただ、圧力に負けると、記者は検察をたたくのだが・・・)。もう2度と、検察担当はごめんだが、一生にもっともきつく華やかな最高の事件記者の現場を体験できたことは、私の宝である。

ゼミ生の中からも、いつか、大物政治家を逮捕できる東京地検特捜部の事件を担当する記者が出てきてほしいものだ。残念ながら、現状ではかなり難しい状況ではあるが、かすかな望みだけは持っておこう・・・。

投稿者 matsuno : 23:02

2007年11月17日

師匠がついに

「ちりとてちん」は、この日、師匠がついに高座にあがったことで、一幕終了という感じですね。
来週からは、新しい幕開けですな。

師匠が「3年間、道に迷ってしまいました」と述べていたが、こういう展開で、また高座にあがることになるとは・・・。
しかし、ひっぱるだけひっぱりましたなあ。

物語も、いよいよ面白くなってきた。視聴率も、そろそろ上向いてくるような気もしますな。

今回は、おじいちゃんが聞いていたあの「あたごやま」の声の主が、目の前に登場したわけですね。驚いた小浜の方々の表情が実に面白く、かつ感動的でした。みな、おじいちゃんのことを思い出したわけですから。

古いカセットテープの映像と師匠の落語の映像をオーバーラップさせる編集は、古典的ですが効果的でした。

脚本家も、こういうふうに仕掛けたわけですなあ。そもそも、テープでしか聞いたことがなかった師匠の落語を、師匠の高座復帰のこの場面で、小浜の一家が本人から聞くことになる。そして、弟子4人も、師匠の復帰を目の当たりにするという「2大感動」を一場面に凝縮させたわけですね。

小浜の物語と弟子の物語という、2つのラインが交錯した感動的な瞬間でした。そして、ここからB子の弟子入りへつながっていくんですなあ。実に、うまいです。

今後が楽しみです。

投稿者 matsuno : 12:02

2007年11月16日

「ちりとてちん」の、初うるうる

NHKの朝ドラ「ちりとてちん」も、今日放送分で、やっとうるうる来た。
「どんど晴れ」よりも遅かった。

やっと、師匠が高座をすっぽかした理由がわかった。
それを聞いた息子の反応が、泣けますなあ。

今後の展開で、きっともっとうるうる来るかもしれないなあ。
それは、師匠が、高座にもう一度上がるときだろうな。

しかし、渡瀬恒彦はかっこいい。ああいう老けかたをしたいものだ。

さて、ドラマというものは、壊れてしまった家族というもの、あるいは、家族みたいなものが、たまたま現れた存在、あるいは災難をきっかけに、もういちど集まっていくという物語が多い。今回も同じだし、「どんど晴れ」も同じだった。

実際には、崩壊した家族は、もとに戻らないことが多いし、いつまでもいがみあったりする。でも、「どんど晴れ」とか「ちりとてちん」を見ていると、何かが(それがたとえ不幸であっても)きっかけに、もういちど家族や一門が集まって、長い間の恩讐を乗り越えようとすることはありえるなあと思う。

家族とか集団とかいうものは、実にもろい。何かのきっかけで、壊れることは日常茶飯事。でも、こういうドラマを見ていると、最後の最後の可能性を信じたくなるのである。

私は基本的には、ドキュメンタリーの方がすきだが、気分落ち込んだときはドラマや映画を見ることにしている。見ると、いっぺんに落ち込んだ気分は吹き飛ぶからだ。作り物の映像は実にうまくできている。ある意味、カウンセリング的効果を内包していると言ってもよいかもしれない。

今回の朝ドラが、「どんど晴れ」と同じように、思い切り感動させくれるのかどうか、楽しみだ。

投稿者 matsuno : 23:08

2007年11月13日

復帰前の沖縄の医療

クララさん(著者をそう呼ばせていただく)の文章の中で、沖縄が復帰前は、医療保険がなかったと書いてあった。だから、街中の薬局が市民の頼みだったそうだ。

確かに、日本は国民皆保険である。しかし、米国は基本的には企業の医療保険である。低所得者と高齢者のための、メディアケアとメディケイドという国家が関与する保険はある。しかし、基本的には、企業が運営する医療保険に入る必要がある。大きな会社に勤務している場合は、会社が保険をかけてくれるが、そうでない場合は自腹だ。だから、健康保険に入っていない人も多い。

それに、歯医者は別なのだ。基本的に米国人で歯科の医療保険に入っている人は非常に少ない。これには、私も驚いた。日本の健康保険は、歯科も含めて適用されることは、実は大変ありがたいことだ。

私が米国留学中にみた公立病院の光景は、ひどいものだった。頭を怪我して、すぐにでも手術が必要な患者も、保険がないからと廊下に放置されているのを見て、すごいショックを受けた。

私はアメリカ政府からかなり良い保険をもらっていたのだが、それでも病院に行くのはいやだった。一回だけ風邪をひき、1週間ほど寝込んだことがあった。扁桃腺がはれて、「これは抗生物質を飲まないとだめかも」と思い、病院にいったのだが、「予約がない」と診療は受け付けてくれなかった。日本のように、保険証だけ握り締めて病院にいけばなんとかなるというものではない。

とにかく、不便なのだ。だから、結局、薬局に多くの人が行くことになる。

アメリカの薬局で売られている薬は、実は日本人にはとてつもなく強力である。2錠と書いてあったら、1錠でいいかもしれない。薬局で風邪薬を買って飲んだが、これが強力で、丸1日眠り続けた末に、完全に治ってしまった。

私が通っていたハーバードメディカルスクールの病院群は、世界最高級だったが、そこには勉強以外でお世話になることはなかった。良かった。外国では、健康第一である。

投稿者 matsuno : 15:11

問題意識を持つ

作文を書く練習用のテキストに使用しているのが、「薬剤師クララがいく!」である。著者の宮城敦子さんは、薬剤師でありながらCATVのキャスターをやっている方だ。

この本をなぜテキストにしているか。いろいろ理由があるのだが、簡単にいうと沖縄文化とスピリチュアリティと薬剤師と健康のことを知るにはもってこいだからだ。それに、理系的な文章にもなれてほしいからだ。

基本的に「私立文系」という限りなく理系からは程遠い人達は、きっと数学も理科もあまりすきじゃなかったんだろう。だから、このテキストをきちっと読むにはつらい部分もあるかもしれない。だが、やはり理系的な内容も読みこなしてほしい。

ジャーナリストになれば、原発問題、医療問題、生命倫理問題、ITとデジタルなど、科学に関する取材はたくさんある。農業問題でも、農薬や化学、生物の知識を多少なりとも必要とする可能性がある。自然災害なども、ある程度は専門知識が必要となる。

新聞記者は、専門的なものを、一般の読者にわかりやすく伝える仕事をするわけだが、理系のテーマでも、それを理解して、わかりやすく伝えようという強い意思が必要である。

私はふりだしが水戸支局だったので、原発問題についてはかなり知識を詰め込んだ。原発の中にも入ったことがある。また、水産業、農林業、自然や動物問題、筑波研究学園都市問題、科学万博、さらには航空問題についても勉強した。そういうことを専門にやっているのは科学部の記者だが、社会部の記者も勉強せざるを得ない。

また、事件についても、警視庁や東京地検担当になれば、刑訴法と刑法、一部税法の知識は必要となる。さらに、業界用語もマスターする必要があるのだ。

ジャーナリストには、問題意識を絶えず持ち続けることと、たゆまぬ勉強が必要である。だから、このテキストを読破する段階で、へばっているようでは、とてもジャーナリズムをめざすことなど無理である。いくつかゼミ生が書いた文章を読んでいて、あまりのお粗末さに、絶望的な気分になるのである。

なぜお粗末な文章しか書けないのか。それは、経験の浅さというのもあるのだが、一番は、問題意識が浅いということだろう。1つの読みきりの文章から、自分が興味を抱いた部分を抜き出し、自分の経験を織り交ぜて、調べた知識を使いながら、文章を構成するということが必要である。

クララさんの文章から、いくらでも自分の世界を展開することが可能である。ただ、数行の短い感想を書くだけで終わっているということは、いかに、想像力に乏しく、問題意識が浅く、調べる能力と意欲が欠けているかを露呈しているようなものである。

文章を書くことは、スポーツとよく似ていて、やればやるだけ上達するのだ。スキーも、1シーズン1,2回しか行かないのと、20回、30回行くのでは大違いである。自分なりに、滑り方のコツや、コースの攻め方を考えて上達するものである。

映像は身体性の脳の部位を使い、言語は高度な意味解釈の部位を使用する。読書も、音読が身体的であるのに対し、黙読は別の部位を使用している。だから、それに、映像は、身体性だけでなく、情緒性も含んでいる。身も心もぼろぼろになる。頭脳という高度なものは、やはり、文章の読み書きでしか育成されない。

投稿者 matsuno : 14:45

2007年11月11日

最近、はやりの・・・「ねこ鍋」


ネコは、やはり憎めませんなー。
これって、youTube→ニコニコ動画でブレイクして、NHKにも取り上げられたわけですが、
やはり、ネコは、視聴率の王様ということでしょうか。

岩手のある女性が投稿したものが、あっという間に話題になった。「Web→NHK・マスメディア」という経路をたどったわけで、Webでもキラーコンテンツはマスメディアにも伝播し、さらに2度目のブレイクにつながるんですね。

しばわんこ和の心」のヒットといい、「ねこ鍋」のブレイクといい、癒しを求め続ける日本独特の現象なのでしょうか。

ただ、NHKの番組で見た、投稿者の自宅付近の情景に、私はのどかさを感じて癒されました。これだけのネコを飼えること自体、余裕と豊かさがありますね。

ちなみに、日本の自殺者は、9年連続して3万人超。日本という国は、本当に豊かなのでしょうか。こういう「ネコ鍋」がブレイクする背景には、市場原理の中で懸命に生きている人たちの苦痛がありそうな気もします。

投稿者 matsuno : 18:26

2007年10月11日

thank you very much!

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ゼミ生の皆様、誠にありがとうございました。
なかなか凝った演出、すっかりはまってしまいました。フェイントが最高でした。一瞬、気付きませんでした。

なんだか、本当にひさしぶりに感動しました。この職業を選択して、よかったです。
また、明日から楽しんで生きていこうと思いました。

I would like to express my deepest appreciation to you all for nice happy birthday direction!!

投稿者 matsuno : 22:03

2007年10月08日

やかんとグラス

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最近、なかなかラーメンなどというものを食べに行かなかった。
しかし、ひさしぶりに、千葉県内に来たこともあって、寄ってみた。

この店のラーメンは、ゆず入りでニボシのダシでヘルシーなので気に入っていたこともある。行列ができるほどのパンチはない。しかし、なんとなく上品な味がするのである。

うーん、それに、チャーシューを炭火で焼いて出すところも、この店のラーメンのおいしいところかもしれません。

以前は気づかなかったのだが、アルマイトのやかんとカラフルなグラス。なんだか昭和30年代を彷彿とさせる。

やかんの中に入っていたのは、水でも麦茶でもない。この味は・・・・・・・、そうだ、グァバ茶だ。

投稿者 matsuno : 21:54

2007年10月07日

someday I will love spring best,

新宿御苑を20年ぶりぐらいに散歩する。
200円取られるだけあって、さすがに代々木公園とは違う。きれいだ。
それに、人が少ない。

park.jpg


今年もまた、ドングリを見つける。もう、秋か・・・。
夏から秋へというこの時期、大変過ごしやすいのであるが、一番寂しさを感じる時でもある。
その人が見る風景は、それを見る人の心理状態を反映するわけであるから、やはり秋には、限りなく寂しくなるのであろう。

oak.jpg

公園の中で、1本だけ秋に咲くサクラにであった。確かにサクラなのであるが、やはり春とは違った寂しさがあふれている。いずれにしろ、秋は寂しいのである。

サクラ.jpg

昔は、「秋」が一番好きだった。肌寒さを感じる風にコスモスが揺れているのを見るのが心地よかった。しかし、いつの間にか「夏」が好きになった。

もっと、年をとると、きっと「春」が好きになるのかもしれない。

投稿者 matsuno : 21:29

2007年09月29日

「どんど晴れ」

「どんど晴れ」が終了した。

朝ドラは、「ちゅらさん」以外は、あまり見たことがなかった。「ちゅらさん」は、沖縄が半分舞台なので見ていたのだが、途中からはまってしまった。やはり、物語の面白さと主役のすがすがしさ、この殺伐とした現代における癒しがあったからだろうか。

「どんど晴れ」は、たまたま第1回から見た。それも、主役が沖縄出身だったから。しかし、舞台は盛岡と横浜だから、途中で見なくなるだろうと思っていたら、なんと、全編見てしまった。

http://www3.nhk.or.jp/asadora/dondo/index.html

なぜだろうか。朝ドラらしくないどろどろした部分はあるわ、物語は昨今のM&Aはあるわ、結婚式の日に大女将は亡くなるわ、とんでもない展開。いつのまにかはまっていた。毎回最後に出てくる「どんど晴れ」は、かかさず見た。だから、最終回のラストの「どんど晴れ」の場面、そして、CGの本が閉じるところはよくできていると思った。

脚本は、小松江里子。TBSとかなり多くの仕事をしている。旦那がTBSにいるからか。

最終回に、柾樹に「この桜を見上げると、いつも寂しい気持ちがしていた。けど、夏美に出会って笑顔で見上げられるようになったよ」といわせるあたりが、うまい。

(ただ、柾樹(内田)のしゃべり方はいまいちだったが)。

脚本がよくできていただけでなく、演出やカメラワークがうまい。一回見た後に、音量を小さくしてカメラワークやカット割りをこれだけ何回も見たドラマは珍しい。絵がダイナミックだった。

今回の主役を務めた比嘉愛未は、完全に夫役の内田朝陽を食ってしまっていた。それだけ、比嘉愛未という新人女優の素質の素晴らしさがにじみ出たということだろうか。

草笛、宮本、長門という大俳優の演技のうまさも、あらためて知った。やはり、うまい。キャスティングをしたプロデューサーのセンスもいい。

東北を舞台にするというのは、かなり難しいのではないかと思ったが、今回のドラマで岩手や盛岡のイメージは大きくアップしたような気がする。さんさ踊りもいつか見に行きたいものだ。さんさ踊りに、実際にキャストを出演させるあたりは、かなりの腕前だった。(観客席の場面は明らかに別撮りだったが・・・)。さんさ踊りの場面の挿入は、ドキュメント的な手法だから、実にリアル感があった。うまいねー。警備が大変だったのではないだろうか。

感激した場面はたくさんあったが、個人的に一番感動した場面は、遠野の回。柾樹が行方不明の父親に再会する場面。遠野物語と宮澤賢治の世界があちこちにちりばめられていて、映像的にも美しかった。

全編を通して見ると、限りなく寂しい男・柾樹が、すこしずつ幸せになっていく展開でもあった。

4月以降、このドラマでなんども元気づけられた。「ちゅらさん」以来のよくできたドラマだと思った。忘れていた日本の良さも、あらためて思い出させてもらった。

ゼミ生からも、いつの日か、NHKの朝ドラを制作するような人物が出てきて欲しいものだ。日本全国の人を、朝から勇気付けるドラマを作れるような人物が・・・。

「どんど晴れ!」

投稿者 matsuno : 21:34

2007年07月21日

私の「美しい国」

私はこれまで数十カ国で取材活動を行って来たが、一番驚いたのは、日本を尊敬している人が想像以上に多いということだ。

特に、我々の日常生活の中で、あまり縁のない中東、アフリカ、中南米、東欧の人々は、多くの人が日本を尊敬している。

あるブラジル人は「日本はミラクルカントリー」だといい、あるチェコ人は「電化製品は世界一」だといい、「あるキューバ人は「イチ(座頭市)を生んだ国」だと、握手を求めてきた。彼らに共通しているのは、日本が敗北の中から立ち上がり平和主義を貫いて経済発展を成し遂げてきたという事実を評価していることだ。

日本ではフツーの存在である、トヨタ、ニッサン、ホンダ、キャノン、ニコン、ソニー、パナソニック。これらは、世界中どこへ行っても看板があるし、誰でも知っている。それが日本の企業であることも、もちろん知っている。そして、それらの製品が、世界で一番故障が少なく信頼されているということも。

だから私はいつも、外国で取材を終えて帰国すると、改めて日本という国に感心しなおす。そしてそれと同時に、几帳面で勤勉な日本人を尊敬し直すのである。

米国で暮らしていたとき、あまりに停電と電話の断線が多いので辟易した。さらに、ホテルの予約間違い、他人の電話代の請求、電車のダイヤの乱れなど、ひどいものがあった。米国の労働力の質の悪さには、ほんとうにあきれる。「カスタマーサービス」が繁盛するのもよくわかる。

それに一部を除いて、学生の学力も、態度もたいしたことはない。一部のエリートが国を動かしているということが良くわかる。

(ただし、学生の必死さは日本とは比べ物にならない。それは、「知=パワー=社会的階層」の関係があり、死活問題に直結するからだ)

中南米取材で、気付いたことがある。
それは、彼らが握手を求めてくる時、彼らの態度は、白人に対するものと同じではなく、同じ有色人種として親近感があふれているということだ。同じ有色人種なのに、ここまで頑張っているのは素晴らしいという意味があると感じた。つまり、彼らは我々日本人を同じ同僚、同じ人種と感じ、愛着を持っているのだ。

そして、「座頭市」というシリーズ映画が中南米で果たした影響も大きい。「強きをくじき弱きを助ける座頭市」は、貧しい中南米の人々、特にキューバ人には人気だった。それが日本人への親近感を少なからず醸成したことは間違いないだろう。

日本人が評価されている点は、工業製品だけではない。人柄もそうだ。それは、「座頭市」が果たした役割だけではない。世界中で働く日本人の姿、態度が、現地の人の評価を高めているのだろうと思う。

バングラデシュ・ダッカでの取材の際、取材拠点としていたホテルで毎日、タクシーをチャーターしていた。

そのとき、タクシーの運転手が、こう言っていた。
「俺は以前、米国大使館に運転手として勤務していたが、米国人は口笛で俺たちを呼ぶ。でも、俺は、犬じゃない。それに対して、日本人は口笛で呼ぶようなことはしない。人間として、同僚のように扱ってくれる。日本人は素晴らしい」と。

几帳面でまじめに働き、礼儀正しい日本人。
どんな人種にも対等に接する日本人。
大戦の痛手から平和主義を貫き、奇跡的な経済復興をなし遂げた日本人。
そして、白人ではない日本人。

もちろん、尊敬ばかりではない。歴史的に深い傷をアジア各国に与えたことは事実だ。
そして、経済発展の過程で、様々な問題を日本企業が引き起こしたことも事実だ。

しかし、取材を通して知ったのは、個々の日本人は基本的にまじめでよく働くこと。現地の人にも家族的に接するということだ。戦後一貫してはぐくまれた日本人への印象が、彼らの尊敬と握手につながっているのだろうと思う。

学生時代、私は日本という国があまり好きではなかった。
しかし、ジャーナリストとして外国で取材を続ける中で、少しずつ日本が好きになった。
それは、戦後、どの国にも侵略せず平和主義を貫いてまじめに働いて来たという事実、そして、いろんな便利なものを発明し、それが世界中の人々を幸せにして来た事実が、外国人から高く評価されているということを知ったからだ。

最近では「クール・ジャパン」と言われている。

私の愛国心は、世界中を回って、自分なりに自分の心の中に築いたものだ。だから、総理大臣や政府や軍から、強制されたくない。

私にとっての「美しい国」は、私の心の中にある。

(松野良一 記)

投稿者 matsuno : 00:11

2007年07月09日

「孤独から逃亡する者に成長なし」-気疲れの日常の原因を探る

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クリエイティブになるには、情報を遮断することが大事であるということは、いろんな人が言っていることである。コシノジュンコさんも、スティーブン・キングもそうだ。

大学に通っていると、会社にいるときよりも処理しなければいけない情報がたくさんありすぎる。会社より大学の方が時間にゆとりがあり知的作業ができると思っていたが、とんでもない間違いだった。

その処理しなければいけない情報というのは、「気疲れ」。学生が、自分でものを思考できないので、いろいろ教えてあげなければいけないということ。最近の学生は、ここまで子どもになったのかと・・・。自分で考える努力をしない。

自分の学生時代を振り返っても、「自分の道は自分で切り開く」という強い意思があった。だから、一生懸命に考えた。私の周囲も、みなそうだった。日常的に議論しあっていた。天下国家についても、青い議論を重ねていた。教授と話をする時も、事前にかなりの準備をしていったものだ。

しかし、現在の学生は大違いだ。実習、研究計画、構成、カンパケ、就職活動まで、すべて面倒みてやらなければいけないというこの現実には、本当に疲れる。私にとって「処理しなければいけない過多な情報」とは、こうした自分の力で解決できない学生の悩みを引き受けて、それを解決しなければいけないということだ。

あまりにも、「思考をやめた学生」が多い。文章も極めて稚拙なものを書く。小学生が書いたのだろうかというものもある。就職活動前なのに、語彙力も漢字力も不足している。絶望的な気持ちにもなる。

決められた仕事をきちんとこなすことはできても、そこから少し離れた複雑な課題となると、なかなかできない。ある意味、「線形」な思考はできるが、「非線形」なものは苦手というのが現状である。
(「リニア」編集はできるが「ノンリニア」編集は不得意ということか・・・?)

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言葉を変えれば、いろいろな事象から一般化できない。複雑な事象を図式化したり、単純なモデルを想定してみて、よりわかりやすく一般化するという能力が育っていない。意味のないもの、必要のないものは、どんどん捨て、重要なものを抽出する訓練をしなければならない。

高校までの教育はどうなっているのだろうか?皆と同じであればいい、学校のいいなりにやっていればよい、という教育を受けてきたからだろうか。それとも、危機感や自意識が足らないのだろうか。情報を必要なものだけに刈り込んでいく、そして、他者との相互作用をこなして、自分を確かなものにしていくという作業を行うことが必要だ。

それを阻害しているものは何だろうか。どーも、それが過剰なmixiへの依存だったり、ケータイ依存だったりするような気がする。自分だけにカスタマイズされた空間、他者からの返答への期待が、自分でものを考えるという力を低下させているような気がする。

そして、若者が「孤独」ときちんと対峙しなくなったことが問題の中心にあると思っている。いつでも、誰とでもケータイでつながることができ、メールでやりとりでき、mixiでやりとりをする。「孤独」とちゃんと向き合って、自分の存在について考えない。というよりも、そこから逃げている。「孤独」になって、自分でものを考えることが怖いのかもしれない。

しかし、「孤独」から逃亡する者は、成長しない。

それに、友人と面と向かって激論しあうという習慣は、どこに行ったのだろうか。本を読むという作業は、今の大学生には高等すぎるのだろうか。面倒だし、孤独な作業であるから避けたいのだろうか。ならば、映画やドキュメンタリーを見て議論するというのでもいい。とにかく、自分で感じて