2008年07月20日
「ヒロシマ独立論」

広島には、学生時代から、5,6回は行っただろうか。
しかし、この本を読んで、戦前の軍都だった「廣島」と、被爆した「ヒロシマ」と、そして戦後に発展してきた「広島」の3つがあることを初めて知った。
この「ヒロシマ独立論」というのは、物理的な独立ではなくて、心の中に本当の平和な空間を構築するという意味で、「独立」という言葉を使っている。最後まで読むとわかる。
では、なぜそういう「ヒロシマ独立論」を唱えるのか。
著者の発想は、こうだ。
「唯一の被爆国」という発想はおかしい。
実際は、在日の人々、アジア諸国の留学生、アメリカ兵捕虜、などが被爆している。「唯一の被爆国」とすると、ナショナリズム的な反核に転化してしまう危険性がある。
原爆を投下したのは米国という「国家」であった。それは、戦争勝利、国益のためには、手段や方法を選ばないという「国家」という装置がなしたことであった。
被爆国を強調しながら、被爆国をアリバイに、憲法9条を変えて軍隊を保持する普通の「国家」になろうという動きを注視しなければいけない。
原爆で一瞬にして10万人が消滅したという事実は、国家とか国民という視点ではなく、それを超越した世界的、人類的な視点で捕らえられるべき。ならば、「ヒロシマ」を、超国家、超宗教の、世界に開かれた「独立空間」にしてしまえばどうか、と主張する。
廣島→ヒロシマ→広島と変化してきた広島、移民が多い広島、ヒロシマをアリバイに徹底的に管理される平和国際文化都市である広島、など、著者の視点は鋭い。
しかし、沖縄との連動を語る付近から、勉強不足であるがゆえに難しいと感じた。「音楽」の章に至っては、著者のもっとも得意とする分野のためか、知らないことが多すぎて、私には難しすぎた。
この本を読んで、もう一度、広島の町を訪れて、ヒロシマという独立空間を考えてみたいと思った。
投稿者 matsuno : 21:26
2008年07月01日
コミュニティFMって、むずかしい・・・

『コミュニティ・メディア―コミュニティFMが地域をつなぐ』金山智子、慶応大学出版会
全国的に、爆発的に普及しているコミュニティFMについて、網羅的に調査を行った極めて挑戦的意欲的な本である。コミュニティFMについて研究するならば、この本は必読書だろう。
しかし、いかんせん、読みづらいのである。
それは、方法論に問題があるように思う。
こういう調査研究は、普通は構成的面接法の手法を使う。そして、個々の事例を時間軸つまり縦軸でまとめると同時に、項目別の横軸でデータをまとめていく。しかし、この本は、横軸だけでまとめてある。
つまり、どういうことかというと、FM局の資本関係、行政との関係、防災、などの項目で、調査したコミュニティFM局のデータを串刺しにしてある。つまり、たくさんのFM局のデータを項目ごとに横軸でまとめてあるのだ。しかし、これだと、個々のFM局の発足から現在に至るまでの経緯や物語がわからない。
コミュニティFMはまだ歴史が浅い。だから、代表的なFM局に焦点を絞った縦軸的調査研究、つまり時間的な個別的FM局研究があったほうがわかりやすのではないかと思った。
縦軸と横軸があれば、この本はよかったと思った。
しかし、現在のところ、これだけの数のFM局を調査した本はないので、コミュニティFMを研究対象にするには、必読書であることに変わりはない。
読むのに苦労したので、読後感は複雑だが、研究する上で参考になったことは間違いない。
投稿者 matsuno : 23:14
「まれびと」の思想-多摩探検隊第51回放送に寄せて

『古代から来た未来人 折口信夫』中沢新一(ちくまプリマー新書)
第51回多摩探検隊にアップされている御岳山に関するドキュメンタリーは、この本を読んだ上で見ると、よく理解できるだろう。
民俗学者である折口信夫が唱えた「まれびと」という考え方には、大変共感させられる。
生きていることを前提として成立している「この世」とは異なる、人間の想像がおよばない世界「あの世」があると古代人は考えていたという。すでに死んだ者やこれから生まれてくる生命の源泉、エネルギーあふれる場所として「あの世」を捉えていたのだという。
中沢氏はこう書いている。
「この世」に生きている時間などはほんのわずかにすぎないけれど、それでも「この世」を包み込んでいる「あの世」があり、あらゆる生命が死ぬとそこに戻っていき、またいつかは新しい生命となって戻ってくることもあると知ることができれば、わたしたちはいつも満ち足りて落ち着いた人生を送ることができる。「あの世」と「この世」をつなぐ通路こそ、折口信夫の発見(再発見)した「まれびと」なのであった。
沖縄のニライカナイ伝説は、まさにこの説を如実に表している。
神楽を舞うお面をつけたものたち、鬼、翁などは、まさに「まれびと」だろう。
沖縄の島で行われる祭りに登場する面をつけたお爺、お婆の姿もまた、折口の言う「まれびと」であろう。
合理的で自立した人間こそが、近代国家を建設し、民主主義を構築したと言われる。
しかし、「死」や「生」を目の当たりにしたときに、人間の力のおよばない世界やエネルギーを感じざるを得ない。
そして、いくら合理的で科学的な理屈を展開しても、人間の生きる意味について答はでてこない。
最近、言われている「野生の思考」「縄文の思考」にまで、思いを致す必要がある。
最近、自然に回帰したいとつくづく思う。
投稿者 matsuno : 21:57
2008年06月24日
知性だけでなく、身体と生命も・・・。
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」内山節 講談社現代新書 720円
昔と言っても、1950年代から60年代初めのころの話だ。私はまだ小学校に通う前だったが、いろんな大人から、キツネやタヌキにだまされた話を聞いた。幼稚園に通う身であった私は、その話を信じて、夜道は怖いというイメージを持ってしまった。
自宅から幼稚園に通う道は、一直線に伸び、小川が傍を流れ、草木は青々としていた。
道はまだ舗装されておらず、土のままだった。荷物を運搬する牛や馬が引く車も頻繁に往来していた。
フナは、手でつかみ取れるぐらいたくさんいたし、ヘビが川を泳ぐ姿は何度も目撃した。雨の日は、道をヘビが覆っていたこともあった。でも、そんな自然にあふれていた故郷が、大好きだった。草むらや森を走りまくり、いろんな遊びをした記憶がある。
祖父の家は、母屋と厠(トイレ)が離れていた。夜中に厠に行くときは、庭を通り越していかなければならなかった。まだ小学校に入る前だったから、夜中に1人で庭を歩いて厠に行くのは怖かった。でも、星の明かりは、とても明るいことに気づいた。星明りで、庭の土が輝いていたことを覚えている。
祖父が死んだときは、土葬だった。木の桶に入れられた祖父を、村人が穴の中におろし、みんなで最後の別れをした。そして、一気に土を落としたことを、つい昨日のことのように覚えている。
そういう環境の中で、キツネやタヌキにだまされることがあるという話は、真実味のある話だった。
しかし、1965年を境に、キツネやタヌキにだまされるという話が、消失していった。その原因について、この本は、ある説を展開している。
この本は、生物学、動物学の本ではない。民俗学や宗教学の本でもない。
この本は、歴史哲学、厳密に言えば、哲学の本だと言った方が良いだろう。
「1965年頃を境にして、身体性や生命性と結びついてとらえられてきた歴史が衰弱した。その結果、知性によってとらえられた歴史だけが肥大化した。広大な歴史がみえない歴史になっていった」というのが、筆者の考察である。
知性だけではとらえられないものがある。身体性や生命性を大事にして、自然の中にある自分の存在を見つめなおすことを改めて決意させる良書である。
投稿者 matsuno : 23:42
2008年06月01日
「城山三郎」の由来

『そうか、もう君はいないのか』 城山三郎、新潮社
城山三郎さんの自伝的純愛ノンフィクションになっている。
当時まだ高校生だった奥さんとの最初の出会いについて、「間違って妖精が落ちてきた感じ」と書いてある。
それからかなり時間がたって、偶然の再会。
事実とは小説より奇なり。そういうこともあるのか、とその「縁」の深さに驚く。
「城山三郎」は、名古屋の城山地区に3月にひっこした時にペンネームにしたそうだ。
日本の経済小説、社会派小説を引っ張った「城山三郎」は、意外なところで誕生していた。
『指揮官たちの特攻』も、奥さんの存在が反映されたものだったとは初めて知った。
「妖精」が先に亡くなるという悲劇を味わいながらも執筆活動を続けた城山三郎の心の支えは、やはり「妖精」だったのだろう。
この本は、短期間で、増刷を繰り返している。
137ページ目の写真を見れば、その理由がきっとわかるだろう。
投稿者 matsuno : 23:11
2008年05月18日
ジャーナリズムの英語
村上吉男 2008 『国際ジャーナリストの英語術』 朝日新書
筆者の村上さんは、朝日新聞社の中では、チャーリー・村上と呼ばれていた記憶がある。日本を代表する国際ジャーナリストが書いた本。ロッキード事件の際に、コーチャンインタビューをスクープして日本のピューリッツア賞と言われる日本新聞協会賞を受賞している。
この本を読むと、彼の英語力の基礎は、米国留学で博士号取得にいたるまでの厳しいトレーニングにあることがわかる。この基礎が、やがて、アメリカ人よりも本格的な英語を使う日本人記者という評価につながっていったのだろう。博士号を取得して朝日新聞社に入社という経緯については初めて知った。
この本のおもしろさは、実際のジャーナリストとしての体験や、現代のメディアが抱える問題を織り交ぜながら、英語習得の技法が紹介されているところだろう。
情報操作である「スピン」の話や、大使館よりもジャーナリストを米国は重要視している話、さらにはコーチャン氏をどう口説き落としたのか、南部訛りとの格闘、「取材源の秘匿」をめぐる問題など、実践的な話がたくさん出てきておもしろい。
しかし、途中からかなり難しくなる。第4章の「英語の品格」ともなると、難しい英単語が出てくる。ここで、急に教科書的になって挫折しそうになるかもしれない。and, but, soなどの英語をどう品格のある英語に置き換えて話すのかということ。品格のある単語集「英字新聞が読めるようになる200単語」が付録についているが、悲しいかな4分の1ぐらいがわからなかった。「俺は、何年英語をやっているのか」という自己嫌悪にまた陥った(自己嫌悪は成長のエネルギーだ、と思い直す)。
後半に行くに従って、読みごたえのある英語の実践的教科書になっている。英語は、やはり、地道にコツコツやっていくしかないと痛感した。
英語教師から間違った発音を教えられてしまう日本の現状は、なんとかすべきだとつくづく思う。私は米国留学中に、単語の発音がまったく違うことになんども驚いた。小さいときに、発音だけは習得したほうがいいと思う。大学以降だと、発音を矯正するのはかなり難しいような気がする。
投稿者 matsuno : 14:47
2008年05月11日
「テレビ進化論」という本の混迷
境 真良 2008 『テレビ進化論』 講談社現代新書
「テレビ進化論」という本が出た。表題につられて買った。しかし、うーん、面白い指摘もあれば、よくわからないところもある・・・。
大ヒットした「ウェブ進化論」の次を狙ったのだろうが、この本は、ごれまでの議論をまとめただけで、「ウェブ進化論」ほど、インパクトがない。しかし、それはしょうがないのかもしれない。
テレビ業界の人で、この本を買って読んだ人は多いと思うが、「だから何なんだ!」と言いたくなった人は多いだろう。要するに、論の展開も、結論も混迷している、というより、混迷せざるをえないようにも思える。それだけ、テレビの将来はわからないのである。
この本の良いところは、1,2,3章まで。「放送と通信の融合」がなぜうまくいかないのかについて、総務省と文化庁の対立問題を判りやすく説明している。ついでに、経済産業省のスタンスもわかる。ただ、このあたりは、日経新聞を読んでいれば、大体わかるし、テレビ業界の人にとっては常識である。初めて勉強する人には、わかりやすいかもしれない。
テレビ局の強さの秘訣が、「流通」を抑えている点である、という指摘は面白い。番組制作の現場にいた人間にとっては、うなづける指摘である。
テレビ業界の人たちが知りたいと欲しているのは、この著者が設定した「次のテレビ」と「テレビの次」の部分であろう。しかし、これが、混迷しているのである。これまで新聞報道されてきたり、業界内(広告代理店も含め)で言われてきたトピックスはどんどん出てくるが、明確な方向性が示されていない。まあ、それは無理な話だとは思うのだが・・・。
実際、テレビがどうなるのかは、誰にもわからないし、わかりにくい。コンテンツが勝負だというのだけはわかるし、流通を抑えることも大事だということもわかる。しかし、デジタル時代は、流通経路も様々だし、著作権もいまのままだと流通しにくい。広告費には限界があるので、販売促進費までとりこめないかという指摘もかなり前からなされてきた。コンテンツの有料配信だけではなく、コンテンツ配信は無料で広告で収入を狙う方式もすでになされてきている。しかし、どれもはっきりはわからない。
テレビのOSともいえるアクトビラにも期待がかかっているが、本当にそれがうまくいくのかどうか・・・。
そんなことは、まだ誰にもわからない。だから、この本も後半から、可能性の記述と著作権の不備の指摘に終始して、結局、何がいいたいのかわかりにくく感じる。後半部分から、非常に読みづらくなるというのが、率直な感想である。現時点でのトピックスの整理という点では、意味があるのだが…。
また、ギョーカイ関係者、特にテレビ局関係者が、違和感を感じる可能性もある。
それはなぜかというと、「ギョーカイ」に問題があると言いつつ、「ギョーカイ」を評価するというダブルバインドな表現があること。そして、もっとも問題なのは、コンテンツが血と汗の結晶であり、人海戦術で作られているという視点が欠落している点。別の言葉でいえば、番組制作や映像作品制作は、かなり訓練をつまなければできない分野であるという認識がないこと。
コンテンツを、何か工場のベルトコンベアーのように、ボタンを押せば大量生産されるもののように考えているのではないかと感じた。同様の考え方の違いは、ライブドアとフジテレビ、楽天とTBSの問題でも見られたものである。
Web2.0でいうUGCと、プロが制作するコンテンツとは、かなり意味が違う。Web2.0のCGMは、コンテンツを自動生成させる仕組みだが、これもプロが制作する作品とは違う。YoutubeにアップされるUGCとプロが制作する作品群も違う。将来的には重なってくる可能性はあるものの、それらを同一のレベルで論じることには、違和感がある。
さらに、この本では、デジタル時代のジャーナリズムに言及していない。マイチャンネルがビジネスの鍵かもしれないが、それがもつ落とし穴については触れられていない。コンテンツをビジネスの視点だけから論じることは、人間の心理から言っても不十分であるし、違和感を感じてしまう。
歴史的に見れば、映画業界に見放されたテレビ業界が、どんぶり勘定で人間関係だけで契約書も交わさずに番組制作をしてきた経緯があるのは事実である。しかし、一番問題なのは、デジタル時代を想定していなかったということである。つまり、テレビでの一回きりの放送だけを想定していたわけである。
デジタル時代になり、マルチユース(ウィンドウ)が可能になった段階で、テレビはどんぶり勘定で再利用が難しいと言われても、はじめから想定外のことだったのである。
逆に、昔の番組をDVD化するときには、当時のプロデューサーの電話一本でOKがでることもある。それがこれまでのギョーカイの慣習だったことも事実だ。
では、どうすればいいのか。私は、大事なことは2つあると考える。
1つは、最初にオールライツで契約を成立させる慣習をギョーカイ内に定着させていくことである。
そして、もう1つは、通信での配信も、放送と同じ「後払い」になるように、総務省と文化庁の早急な調整が必要だと考える。
この2つで、状況は大幅に改善されるように思う。
最後に、この本を買って読むべきかどうかだが、私は、①買ってもいいが、②前半をしっかり読み、③後半は疑問をぶつけながら参考程度にする、のがよいかと思う。そして、テレビの進化は混迷状態であることを理解するのが良い方法かもしれない。
投稿者 matsuno : 22:21
2008年04月14日
新版「夜と霧」、そして「生きる意味」

新しい訳の「夜と霧」(V.E.フランクル)が出ていたというのは知っていたが、忙しさにかまけて読まなかった。が、なぜか、急に読みたくなった。今回は、数時間で読破した。
旧版の霜山先生が訳されたものは、学部生時代に読んだが、けっこう歯ごたえがあった。
が、この新版はあっという間に読み終えた。
(新版の訳は、池田香代子さんが担当されている。旧版には、分厚い解説と写真集がついている)
そして、改めて、この本のもっている力に驚き、感謝した。
アウシュビッツ収容所で、絶えず死に直面しながらも、最後まで生き残った心理学者であり精神科医の体験的分析記録である。
新版を読んで、いくつか再度噛み締めた。
生きる意味は、苦しみや死を含む全体としての生きる意味であるということ。
苦しむこととはなにかをなしとげること。
つまり、現在の苦しみや絶望的な状態から逃げて、過去の栄光や来るべきはずもない妄想に取り付かれることなく、苦しみや死も含めて生きることに意味があるということだ。
1944年のクリスマスから1945年の新年にかけて、多くの被収容者が死んだそうだ。
それは、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの希望にすがっていたからだと、フランクルは書いている。クリスマスになっても解放されず、人々は落胆と失望にうちひしがれ抵抗力がなくなって大量死につながったとしている。
「生きる意味」とは何か、というのは、誰でも考えたことがあるテーマであろう。
しかし、フランクルは、コペルニクス的転回が必要であると主張している。
「生きる意味」とは何か、を問うのではなく、我々自身が、その問いに立っているという事実。
つまり、我々自身の行動によって、答えは出てくるということだ。
「人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない」としている。
ここまで来ると、実存主義と似ていると思われる方もいるだろうが、実際に、フランクルは「実存分析」という心理療法の元祖である。
今の苦しみもまた、自分のもので、それを生きること自体が、自分の生きる意味であるということは、
なんと、すがすがしいことであろうか。
「涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ」と。
「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
という言葉も実存的だ。
自分が経験してきたことが、自分という本質を形作っていくというのが実存主義。
つまり、自分の人生は、自分の歩み方しだいであるということだ。
だから、苦しみを生きることも意味があるし、死を含めて生きることが、生きる意味であるということだ。
実に、さわやかである。
あるエピソードも紹介されている。
被収容者たちは、カロリーのない味の薄いスープと、ひとかけらのパンだけしか与えられず、日に日にやせ衰えていった。
ある日、1人のドイツ側の現場監督が小さなパンをそっとくれた。それは、監督が自分の朝食から取り置いたものだったという。それをもらったフランクルは涙をぼろぼろこぼしたという。
それは、「パン」というものに泣いたのではなく、その男が示した「人間らしさ」に対してだったと書いている。
そして、苦しいとき、自分の愛する人(誰でも良い)と心の中で対話することが、
どれだけ力となるのかも、この本を再読して気づいた。
心の中の自由までは、誰も奪うことができない。
最後に、フランクルは、心理学者の目をもっていたことも、生き延びた力になったと言っている。
つまり、「極限状態に置かれた人間は、いったいどうなるのだ」、という客観的分析の視点を持っていたことだ。自らも極限状態に置かれていたのに、よくそういう視点を保持できたなあと思う。
しかし、これは、ジャーナリストにも共通するものだ。
自分と他者がいる。しかし、もう1人、記者としての自分もいる。そういう感覚を持ったことがあるジャーナリストは多いだろう。自分という存在、そして観察者としての自分の存在。ルポルタージュを一度書くと、その心境はなんとなくわかる。
いずれにせよ、古今東西、大学生にとって必読の書であることは変わらない。
学部時代にはわからなくても、社会人になったら、よくわかるようになるはずだ。
「星の王子様」と同じように・・・。
投稿者 matsuno : 21:35

