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2008年04月14日
新版「夜と霧」、そして「生きる意味」

新しい訳の「夜と霧」(V.E.フランクル)が出ていたというのは知っていたが、忙しさにかまけて読まなかった。が、なぜか、急に読みたくなった。今回は、数時間で読破した。
旧版の霜山先生が訳されたものは、学部生時代に読んだが、けっこう歯ごたえがあった。
が、この新版はあっという間に読み終えた。
(新版の訳は、池田香代子さんが担当されている。旧版には、分厚い解説と写真集がついている)
そして、改めて、この本のもっている力に驚き、感謝した。
アウシュビッツ収容所で、絶えず死に直面しながらも、最後まで生き残った心理学者であり精神科医の体験的分析記録である。
新版を読んで、いくつか再度噛み締めた。
生きる意味は、苦しみや死を含む全体としての生きる意味であるということ。
苦しむこととはなにかをなしとげること。
つまり、現在の苦しみや絶望的な状態から逃げて、過去の栄光や来るべきはずもない妄想に取り付かれることなく、苦しみや死も含めて生きることに意味があるということだ。
1944年のクリスマスから1945年の新年にかけて、多くの被収容者が死んだそうだ。
それは、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの希望にすがっていたからだと、フランクルは書いている。クリスマスになっても解放されず、人々は落胆と失望にうちひしがれ抵抗力がなくなって大量死につながったとしている。
「生きる意味」とは何か、というのは、誰でも考えたことがあるテーマであろう。
しかし、フランクルは、コペルニクス的転回が必要であると主張している。
「生きる意味」とは何か、を問うのではなく、我々自身が、その問いに立っているという事実。
つまり、我々自身の行動によって、答えは出てくるということだ。
「人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない」としている。
ここまで来ると、実存主義と似ていると思われる方もいるだろうが、実際に、フランクルは「実存分析」という心理療法の元祖である。
今の苦しみもまた、自分のもので、それを生きること自体が、自分の生きる意味であるということは、
なんと、すがすがしいことであろうか。
「涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ」と。
「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
という言葉も実存的だ。
自分が経験してきたことが、自分という本質を形作っていくというのが実存主義。
つまり、自分の人生は、自分の歩み方しだいであるということだ。
だから、苦しみを生きることも意味があるし、死を含めて生きることが、生きる意味であるということだ。
実に、さわやかである。
あるエピソードも紹介されている。
被収容者たちは、カロリーのない味の薄いスープと、ひとかけらのパンだけしか与えられず、日に日にやせ衰えていった。
ある日、1人のドイツ側の現場監督が小さなパンをそっとくれた。それは、監督が自分の朝食から取り置いたものだったという。それをもらったフランクルは涙をぼろぼろこぼしたという。
それは、「パン」というものに泣いたのではなく、その男が示した「人間らしさ」に対してだったと書いている。
そして、苦しいとき、自分の愛する人(誰でも良い)と心の中で対話することが、
どれだけ力となるのかも、この本を再読して気づいた。
心の中の自由までは、誰も奪うことができない。
最後に、フランクルは、心理学者の目をもっていたことも、生き延びた力になったと言っている。
つまり、「極限状態に置かれた人間は、いったいどうなるのだ」、という客観的分析の視点を持っていたことだ。自らも極限状態に置かれていたのに、よくそういう視点を保持できたなあと思う。
しかし、これは、ジャーナリストにも共通するものだ。
自分と他者がいる。しかし、もう1人、記者としての自分もいる。そういう感覚を持ったことがあるジャーナリストは多いだろう。自分という存在、そして観察者としての自分の存在。ルポルタージュを一度書くと、その心境はなんとなくわかる。
いずれにせよ、古今東西、大学生にとって必読の書であることは変わらない。
学部時代にはわからなくても、社会人になったら、よくわかるようになるはずだ。
「星の王子様」と同じように・・・。
投稿者 matsuno : 2008年04月14日 21:35