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2008年04月26日

サーバーが・・・

休憩中でございます。

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投稿者 matsuno : 09:33

2008年04月14日

新版「夜と霧」、そして「生きる意味」

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新しい訳の「夜と霧」(V.E.フランクル)が出ていたというのは知っていたが、忙しさにかまけて読まなかった。が、なぜか、急に読みたくなった。今回は、数時間で読破した。
旧版の霜山先生が訳されたものは、学部生時代に読んだが、けっこう歯ごたえがあった。
が、この新版はあっという間に読み終えた。

(新版の訳は、池田香代子さんが担当されている。旧版には、分厚い解説と写真集がついている)

そして、改めて、この本のもっている力に驚き、感謝した。

アウシュビッツ収容所で、絶えず死に直面しながらも、最後まで生き残った心理学者であり精神科医の体験的分析記録である。

新版を読んで、いくつか再度噛み締めた。
生きる意味は、苦しみや死を含む全体としての生きる意味であるということ。
苦しむこととはなにかをなしとげること。

つまり、現在の苦しみや絶望的な状態から逃げて、過去の栄光や来るべきはずもない妄想に取り付かれることなく、苦しみや死も含めて生きることに意味があるということだ。

1944年のクリスマスから1945年の新年にかけて、多くの被収容者が死んだそうだ。
それは、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの希望にすがっていたからだと、フランクルは書いている。クリスマスになっても解放されず、人々は落胆と失望にうちひしがれ抵抗力がなくなって大量死につながったとしている。

「生きる意味」とは何か、というのは、誰でも考えたことがあるテーマであろう。
しかし、フランクルは、コペルニクス的転回が必要であると主張している。

「生きる意味」とは何か、を問うのではなく、我々自身が、その問いに立っているという事実。
つまり、我々自身の行動によって、答えは出てくるということだ。
「人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない」としている。

ここまで来ると、実存主義と似ていると思われる方もいるだろうが、実際に、フランクルは「実存分析」という心理療法の元祖である。

今の苦しみもまた、自分のもので、それを生きること自体が、自分の生きる意味であるということは、
なんと、すがすがしいことであろうか。
「涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証だからだ」と。

「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
という言葉も実存的だ。
自分が経験してきたことが、自分という本質を形作っていくというのが実存主義。
つまり、自分の人生は、自分の歩み方しだいであるということだ。
だから、苦しみを生きることも意味があるし、死を含めて生きることが、生きる意味であるということだ。
実に、さわやかである。

あるエピソードも紹介されている。
被収容者たちは、カロリーのない味の薄いスープと、ひとかけらのパンだけしか与えられず、日に日にやせ衰えていった。
ある日、1人のドイツ側の現場監督が小さなパンをそっとくれた。それは、監督が自分の朝食から取り置いたものだったという。それをもらったフランクルは涙をぼろぼろこぼしたという。
それは、「パン」というものに泣いたのではなく、その男が示した「人間らしさ」に対してだったと書いている。

そして、苦しいとき、自分の愛する人(誰でも良い)と心の中で対話することが、
どれだけ力となるのかも、この本を再読して気づいた。
心の中の自由までは、誰も奪うことができない。

最後に、フランクルは、心理学者の目をもっていたことも、生き延びた力になったと言っている。
つまり、「極限状態に置かれた人間は、いったいどうなるのだ」、という客観的分析の視点を持っていたことだ。自らも極限状態に置かれていたのに、よくそういう視点を保持できたなあと思う。

しかし、これは、ジャーナリストにも共通するものだ。
自分と他者がいる。しかし、もう1人、記者としての自分もいる。そういう感覚を持ったことがあるジャーナリストは多いだろう。自分という存在、そして観察者としての自分の存在。ルポルタージュを一度書くと、その心境はなんとなくわかる。

いずれにせよ、古今東西、大学生にとって必読の書であることは変わらない。
学部時代にはわからなくても、社会人になったら、よくわかるようになるはずだ。

「星の王子様」と同じように・・・。

投稿者 matsuno : 21:35

2008年04月10日

映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」

あさま山荘事件に関連する映画として、警察側の視点で描かれた映画「突入せよ! あさま山荘事件(2002)」がある。

この映画は、どーも佐々淳行の自慢話になっているし、役所広司が演じていてなんとなく違和感があった。

ただし、この映画の面白いところは、警察という組織体、警察庁という組織体の実情がわかるところである。警視庁機動隊の2機と9機、さらには長野県警との確執。それに後藤田長官の考え方などが、わかる。

この事件は、多くの学生が「総括」という名のリンチで死亡しているし、警察官も殉職している。その後の赤軍派が起こした世界的なテロの数から言っても、当然、連合赤軍側からの視点、当時の学生紛争当事者の視点で描かれた映画がみたかった。

そして、若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」が封切られた。なかなか見にいけなかったが、やっと見た。
すさまじかった。

http://wakamatsukoji.org/

私が小学校、中学校のときに学生運動はピークだった。
東大安田講堂の闘争、よど号ハイジャック事件、そして「あさま山荘」事件・・・。テレビに釘付けになった。生中継というテレビの威力がいかんなく発揮された。
その中でも、「あさま山荘」事件は、実際に銃で打つという事件が生中継されてお茶の間に届けられた。これは、テレビの歴史でも初めてのことだった。事件当時のVTRを見ると、実況中継しているアナウンサーもそういうテレビメディアの威力とともに悲劇的なメディアの現実を語っている。テレビ放送史上最高の視聴率(NHKで89.7%)を記録している。

この映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を見て、初めて事件のバックグラウンドがわかったような気がする。
当時の三派全学連、ブント、そして、赤軍派の誕生、革命左派(京浜安保共闘)と「連合赤軍」の結成。

重信房子と永田洋子の2人のキャスティングには、なるほどと思った。

「総括」として、自分で自分の顔が変形するまで殴らされる遠山美枝子を坂井真紀が演じている。この壮絶な場面には、ショックを受けた。当時、流行語にまでなった「総括」とは、こういうことだったのかとあらためて認識した。

また、この「あさま山荘」事件には、加藤3兄弟というのが出てくる。しかし、一番上の兄は「総括」される。2人の弟たちも、兄を殴るのである。一番下の弟は、まだ高校生だった。兄はその後、極寒の中に放置され死亡する。

革命的精神が足らないとか、自らを共産主義化しろとか、反革命的、スターリン主義的という理由で処刑されていく。10人以上が総括の名の下に殺されていく事実は、もはや狂気としか思えない。

あさま山荘から銃を打っていた光景を「革命的」と評していた人たちも、その後に総括の事実が明らかになるにつれて、驚愕と落胆を隠し得なかったのではないだろうか。

この映画を見ると、人間とはなにか、ということを考えざるをえなくなる。

この映画の中には、中央大学も登場する。学生がロックアウトする中央大学内部の様子が描かれている。当時は、中庭が校舎に囲まれていて、比較的安全であり、かつ出撃基地としては格好の場所だったらしい。法学部長室で彼らが議論する場面も出てくる。ある意味、中央大学は、拠点だったようだ。

私は記者時代に、こうした学生紛争時代の問題も取材したのだが、その中で、赤軍派議長の塩見孝也氏に京都大学でインタビューしたときのことが印象に残っている。

彼は、「赤軍派と革命左派がいっしょになって、うまくいくはずがなかった」と、総括事件の原因は「連合」にあったと分析していた。

また、ある赤軍派(よど号ハイジャック犯)が実は国内の町工場で働いていて逮捕された事件、別のメンバーが米国で逮捕された事件も取材した。そして1人が箱崎のバスターミナルで逮捕された事件については、取材中に意外な事実を聞いた。

赤軍派は、重信房子被告がすでに解散宣言を出している。

こうした関連の事件については、多くの書物が出ているが、この若松孝二監督の映画も、この事件だけでなく人間とは何かについて理解を深める上で必見だろうと思う。

投稿者 matsuno : 22:00

2008年04月07日

椿

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雨にぬれた石畳に落ちた椿の花
いかにも、日本風ですね。

投稿者 matsuno : 23:53