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2007年12月05日
「恋空」とケータイ
映画「恋空」をぼろくそに批評したが、メディア論的に見れば、いくつか発見があった。
1、ケータイなくして「恋空」なし。
まあ、そもそもケータイ小説だから、ケータイが中心にあるのだが、ここまでケータイが高校生のコミュニケーションの中核をなしているのかと驚いた。ケータイがきっかけで出会いがあり、ケータイで連絡を取り合い、最後の別れもケータイの「テレビ電話」だった。
とくに、ヒロがガンで、病状が急変する場面。ミカが写真のプリントをもって病院にもどる途中に、ヒロの病状が急変して危篤に陥る。ミカが走りながらテレビ電話でヒロと最後のやりとりをする場面が出てくる。こういうのって、まさにケータイの進化があって成り立つシーンである。FOMAあってのシーンだった。
2、ケータイが作り出す社会性に乏しいバーチャル・メディア世界に住んでいる高校生。
私が違和感をもったのは、集団強姦という一級犯罪が起きて首謀者もわかっているのに警察に通報しないこと。親もまったく行動しないこと。これはある意味、社会性とはまったく無縁の世界の中に住んでいる人間の発想でしかない。妊娠しているのに、突き飛ばされ流産する。でも被害者はなんら抗議することがない。本来なら刑事、民事ともに問える事件である。しかし、そういう社会的行動にでない。両親もまったく行動しない。
この物語が、「実話に基づいた」と言っている割には非常識な部分が多くて、これは社会的な常識を欠いた人の創作に思える。「法の上に眠るものは救われず」という言葉もしらないことだろう。
ヒロとミカのやっていることも、きわめてオツムの悪い高校生のやることで、自己中心的である。「激流に飲み込まれた」という表現を使えばきれいだが、社会性があるとは到底言えない。
学校という現実社会とは隔絶された窒息しそうな世界に住んでいる高校生にとっては、こういう社会性のない主人公が織り成す社会性の無い世界の物語が、逆に真実性をもって迫ってくるのかもしれない。だから、ガキの物語なのだ。社会人であれば、大変なことになるだろう。
3、ケータイは保護者、家の概念を崩壊させている。
固定電話時代には、彼女の家に電話するのに、誰もが緊張した。親父でも出ようものなら、大変だからである。1対1がコミュニケーションするなんてことは不可能だった。しかし、ケータイの出現で、それが可能になり、別に相手の親父など関係なく電話することができるようになった。これは便利だが、社会性やコミュニケーション能力は壊滅的打撃を被っているに違いない。
ガキは、固定電話によって成長していたのに、ガキはケータイによって成長が停止してしまったのかもしれない。
無防備なまま、出会い系サイトに入り込み、そのままだまされたケースは後を絶たない。罠をかけるほうはきわめて問題だが、罠にかかるほうも問題である。
そして、ケータイに対するリテラシー教育をしないケータイ会社、教育現場、ケータイサイト運営者も問題である。これだけケータイは非社会的空間を生み出しているのに、なんら教育がされてないことは恐るべきことである。
「恋空」という映画のヒットは、ケータイが作り出した非現実的、社会性欠如のバーチャル・メディアワールドに、若者たちが取り込まれてしまっている現実を浮き彫りにしているのではないだろうか。
投稿者 matsuno : 2007年12月05日 22:21