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2007年04月30日

最北の春は遅い

利尻富士.JPG

日本の最北の地、稚内。利尻富士にもまだ雪が残っていた。
町の中にあった桜の木を見ると、まだつぼみだった。

投稿者 matsuno : 21:02

2007年04月27日

学業の偏差値とは違う「できる子」の発見(「新聞ブログ」秘話②)

今回、沖縄で「新聞ブログ」の実証実験を行って気付いたことの1つは、学業の偏差値とは違う「できる子」がいるということである。

その「できる子」というのは、ペーパー試験で出された問題に対し機械的に解答できる優等生ではない。なんというか、感性が鋭くて写真を撮ったり記事を書くのが上手であること。新聞づくりや映像表現は、通常の学力だけではない能力が必要である。好奇心が旺盛で、クリエイティブで表現能力が高いこと、そして何といっても、新聞を作るのが好きなことである。何かを見つけ、面白がり、そして、表現することが好きなことである。ある意味、これがジャーナリストとしての原点かもしれない。


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修学旅行の写真をいくつか選び、そのときの思い出を、5W1Hで構成して記事にしていく作業を班ごとに行った。大変なのだが、そういうものが好きな子はいる。同じ班のメンバーと議論しながら、方向性をマネジメントしていく。構成し終わると、一気に、テンプレートにローマ字打ちしている。それも、班で一番早く打てる子に指示して、全体として新聞作りを進めていっているのである。

私が担当した班にも、2人ほど優秀な子がいた。1人は男の子、1人は女の子だった。新聞が完成した後に、担任の先生に、「あの2人は成績もいいでしょう?」と聞いたら、「いや、普通ですよ」という答が返ってきた。私が驚いたら、担任の先生の方が「へー、あの子どもたちがねー。記者としての才能があるのかも・・・」と喜んでいらっしゃった。

私は、他の班の面倒も少しみたが、ここでもジャーナリストとしての才能のある子はいた。この子についても、担任は「いやー、普通です」。

しかし、そういう新聞作りに向いている「できる子」は、確かにいるのである。これは、これまでの知識伝達型を主流とする学校教育の範疇にはなかった能力ではないだろうか。ジャーナリストとしての才能を持つ子どもがいるということを、この「新聞ブログ」プロジェクトで発見したような気がした。

好奇心を持つ、相手に質問する、面白がる、メモしたものを記事にする、そして新聞として表現することが好き。こういう「できる子」は、何かを作り上げる、表現する、他の人とコミュニケーションするといったことが好きである。

これまでの一方向の授業も、知識伝達する上では重要ではある。が、「新聞ブログ」のような経験型、参加型、双方向型の授業も、どんどん学校教育に取り入れると、子どもたちの様々な能力の開発や育成に役に立つのではないかと思った。

投稿者 matsuno : 22:30

2007年04月25日

作文が好きになる方法(「新聞ブログ」秘話①)

シックスアパート社と共同開発した「新聞ブログ」の運用実験を沖縄県内の2つの小学校でおこなった。

http://www.matsuno-lab.com/newspaper/

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その結果、いろんなことがわかった。

1つは、作文がみな嫌いだけど、この「新聞ブログ」を使うと最後は好きになるということである。そんなことがあるのか、と疑問に思われるかもしれないが、本当である。私もびっくりした。

小学校で、原稿用紙を配られて、先生から「作文を書きなさい」と言われると憂鬱だった。作文が好きな子なんて、クラスで国語の好きな女の子が1,2人いるぐらいだった。そもそも、作文の指導にあたっては、「独創的な視点で」とか「感動的な表現」というのが基準にあるらしい。そんなもの、教諭でも書ける人少ないのではないかと思う。

小学校の作文の時間に、書くことがなくて「作文はなぜ嫌いか」を書く児童はクラスに数人はいるらしい。自分の小学校時代を振り返ってみても、「作文嫌い」そのものを題にして作文を書いて先生に怒られていた奴がいたことを記憶している。

今回も、沖縄の北谷町立浜川小学校で「作文嫌いな人は?」と聞いたら、みんな手をあげてしまった。しかし、このプロジェクトが終了し、下校前に「作文好きになった人?」と聞くと、皆手をあげていた。なぜだろうか。

実は私も、その答は、運用実験をやっていて、途中で気付いたのだ。まさに、目からうろこだった。

最初に、この「新聞ブログ」を動かすために、記事の書き方を教えた。新聞記事の基本は、5W1Hである。いつ、どこで、だれが、何を、どのようにどうした(どうなった)、なぜ。

これを教えるのに、ある手法を使った。それは、あるゼミ生を生け贄にして、小学生たちから質問攻めにしたのである。というと聞こえが悪いので、小学生を記者にして、このゼミ生にインタビューを行い、「人物像」を描きださせたということにしておく。

質問は、いろいろ出た。「何歳」「どこから来た」「なぜ来た」「どこに住んでいる」「好きな食べ物は」「沖縄は何回目」「沖縄の好きなところは」など。出色なのは、「なぜ東大に行かなかったんですか?」(行けなかったのですか、の間違いだろうが・・)。

ばらばらに出された答を、5W1Hに並べ変えていくと、不思議にも、新聞の文章になっていく。それも、すらすらと書けていくのである。つまり、書く材料がふんだんにあるので、その材料をうまく文章として料理していけるのである。ばらばらの材料である「情報」を、いろいろ料理して「文章」という形にしていくのである。材料が一杯あるから、400字ぐらいは、あっという間に埋まってしまう。児童たちが、あまりに書きすぎるので、カットする方が大変だった。

事実関係を書き、そして、自分の感想をつけていく。記事だけど、よく読むと、作文になっている。驚いた。

「新聞ブログ」は、トップニュースが400字なので、取材という作業を行うことによって、あっという間に記事を書くことができるのである。

自分たちが持っている「もっと知りたい」という欲求を、質問、インタビューという形でぶつけ、相手から答を引き出すという取材行為は、小学生たちにはとても新鮮で、とても楽しかったみたいだった。そういう経験はあまりないみたいだ。

つまり、現在の国語教育は、文章読解が主である。取材するという能動的な行為を踏まえて材料を集め、それを執筆していくというジャーナリズムの本格的な体験は、やられていない。本当は、これが、児童の内発的動機づけには極めて効果があると思う。

さて、もう1つ、彼らのモチベーションを上げたのは、ブログというツールの面白さである。書き上げた文章をテンプレートに打ち込む。そして、撮影してきた写真をアップロードする。最後に「保存」のボタンを押す。そうすると、一瞬にしてWeb上に自分たちの書いた記事が新聞風のレイアウトで登場するのである。自分たちの取材活動、執筆活動という努力の成果が、目に見える形でWeb上にアップされるのである。

努力の成果のフィードバックがタイムラグなしでなされると、教育効果が大きくなるのは言うまでもない。そして、Web上だけでなく、印刷するとA3版の新聞になる。印刷された自分の記事と写真。それは、小学生たちには、かけがえのないものになったにちがいない。

今回は、小学校の隣りにあるそば屋とケーキ屋に取材に行ったが、そば屋の親父さん、ケーキ屋の親父さんも快く取材に答えてくれたらしい。そして、やはり児童たちの質問攻めにあったようだ。子どもたちの好奇心あふれる笑顔が想像できる。文章も、書きすぎて削られていた。それだけ、取材という行為は、作文というものへの抵抗感を減少させるだけでなく、文章を書くという行為の面白さにつながっていくのだろうと思った。

私も新聞記者であったが、どんなに苦しくても、楽しかった。それは、記事を書いた翌日には、新聞紙に自分の記事が掲載され、それをしっかりと自分の目で確かめることができるからである。

投稿者 matsuno : 21:26

2007年04月17日

東国原知事の記者会見問題について考える

宮崎県の東国原知事が、「記者会見は定期的にやる必要があるのか。何かあったときだけでいいじゃないか。県民のために時間を使いたい」という発言をして、記者団ともめる一幕があった。

この問題は、いろいろな意味を持っているので書き留めておく。1つは、東国原知事の認識不足の問題。もう1つは、記者は本当に職業倫理を持って、県民の「知る権利」にこたえているのか、という問題。

知事の言い分は、県民のために、という言葉があるので、一見もっともらしいのであるが、実は「記者会見は本来は、県民のため、納税者のため、国民のためにあるのだ」ということを忘れているのではないだろうか。

インターネットの時代、市民メディアの時代になったとはいえ、権力側に接触できるのはマスコミしかない。そもそも、名もなき市民、県民が、知事に面と向かって質問を浴びせたり、インタビューしたり、疑惑を追及できるとは、現時点では思えない。そうなると、まだまだ取材を職業としている記者の力は必要である。

だから、知事が定期的に記者会見を開いて、情報を公開し、さらに記者団からの質問に答えるということは、最終的には県民の「知る権利」にこたえるということにつながる。もし、「何かあった場合に記者会見すればいいでしょう」ということになれば、都合が悪い時、隠したい話題の時には、記者会見を開かないということになりかねない。定例記者会見は、ある意味、権力者と「知る権利」にこたえる使命を持った記者団とのせめぎあいの場所でもあるわけだ。

しかし、ここで問題なのは、記者団は本当に市民、県民、国民のために、「知る権利」にこたえるために、ジャーナリストとしての職業倫理に基づいて仕事をしているのか、ということである。逆に、新聞社、テレビ局の私企業的利益、あるいは個人的利益を優先させ、県民のことを忘れていることはないだろうかということである。

スクープ合戦は、プラスに働くこともあるが、マイナス面も大きい。ただ、他社を出し抜くことだけで満足し、肝心の県民のためにという意識は失われていないだろうか。

また、記者会見に漫然と出席し、ありきたりの質問をし、ありきたりのやりとりだけで、記者が満足していないだろうか。

さらに、「記者クラブ制度」に基づいた既得権にアグラをかき、偉そうな態度で取材してないだろうか。フリーの記者や外国人ジャーナリストに対し、排他的な態度を取っていないだろうか。

東国原知事の発言は、不必要な記者団の反感を買ったように思える。しかし、「記者が本当に県民の立場に立って、ジャーナリストとしての職業倫理をもって仕事しているのか」、という問いかけのようにも聞こえた。

記者は、一体、誰のために仕事をしているのか。単発的なスクープ合戦だけでなく、もっと深みのある熟成した記事を書いて欲しい。

自分の記者経験を自省しながら、書き留めておく。

(松野良一記)

投稿者 matsuno : 13:17

2007年04月16日

選挙カー

統一地方選の後半戦である。
毎日のように、選挙カーがやってくる。
毎日のように、候補者がパフォーマンスを繰り広げている。

自宅で原稿の締め切りに追われている時、選挙カーがやってくると、「あーっ!!」とうめいてしまう。集中力が中断されてしまうからだ。

しょうがないので、演説をしばらく聴く事にした。昔みたいに、絶叫型の演説ではなく、しずかな語り口であった。

演説の内容は、区の予算規模、それで何を作ろうとしているのか、今本当に必要なものは何か、という主張であった。

私は、社会部記者時代に事件ばかり担当していたので、東京都政や区政には詳しくない。それでも、世田谷区が一番進んでいたと記憶している。現在でも、世田谷区は、中学生まで医療費が無料など進んでいる(今では、他の区も、そうなりつつあるが)。

必要な建物は建て替えなければならないが、不必要な建物は要らない。住民が一番望んでいることは、医療、福祉、教育という最も重要な分野のサービスを充実させることだろうと思う。

最近、「安心」と「安全」が行政のキーワードになっているが、それが公共事業ばかりでは困る。本当の住民のニーズを把握し、そのニーズにこたえて欲しいところだ。

住民が本当に望んでいるものと、官が税金でやろうとしているものが、乖離している様を、記者として長年見てきた。いったい、誰のための行政なのか、候補者はもう一度考えてほしい。

投稿者 matsuno : 23:31

2007年04月07日

桜の花は色あせたのか・・・

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朝、通りがかりに、桜の花をしばらく見ていたら、近所のおばあさんが声をかけてきた。

「最近の桜は、色あせてねぇー。なんだか、白っぽいんだね。昔は、花びらの色が濃かったんだよー」。

私は、そう言われてみれば、確かに昔に比べると白っぽくなったような気がした。酸性雨のせいだろうか、排気ガスのせいだろうか、それとも地球温暖化のせいだろうかと思いをめぐらせてしまった。

しかし、そんなことがあるのだろうか。桜の品種自体が変化したとは思いがたい。単なる気のせいじゃないだろうか。

一応、おばあさんの言葉にうなづいていると、そのおばあさんは、こう続けた。

「昔の軍人さんは、ぱっと咲いて、ぱっと散っていったんだね。みんな若くして死んでしまって・・・」

桜の花を見つめる、すっかり腰の曲がってしまったおばあさん。その後ろ姿を見ていると、きっとこの方の身内にも戦死者がおられるのだろうと推察した。亡くなった方が親なのか兄弟姉妹なのかは聞かなかった。けれど、なんとなく、わかった。

桜の花の色について、思いをはせた。愛する人たちといっしょに見た桜の花の色は、きっと今よりも濃かったのだろうと・・・。

「それじゃ」と言って、その場を離れようとすると、「いってらっしゃい」と声をかけられた。

駅へ向かう道には、昔より白っぽくなったという桜の花びらが、春風に舞っていた。


                                         (松野良一記)

投稿者 matsuno : 14:14